マルティン・ベックってどんな人

 

 全世界で一千万部を超えるシリーズの主人公、マルティン・ベックとはどんな人物なのだろう。彼は、仕事熱心ではあるが、出世コースから外れてしまった中年男として描かれている。最初の数作で、彼は家庭で妻や子供たちから粗大ごみ扱いを受け、仕方なく家で模型の船を作る事に熱中している。季節の変わり目には必ず風邪を引くが、絶対に仕事を休まない。冴えないが、一徹な人物である。

十年間に渡って発表された十作の中で、マルティン・ベック像が変化を見せている。「落ちこぼれからヒーローへ」というところか。最初は、地味で出世コースから離れた警部であるが、第三作からは警視に昇格、最終策では警察幹部が一目置く優秀な警視になっている。私はその変遷が、水島新治の野球漫画「あぶさん」に似ていると思った。主人公の「あぶさん」こと景浦安武は、最初の酒飲みの選手というイメージから、最後はスーパーマンに的なヒーローに変化を遂げている。最終作で、ベックはスウェーデンを訪問する、米国上院議員の警備責任者に任命されている。彼は、テロリストから上院議員を守るため、あっと驚くトリックを考え、実行することになる。

ベックは、一口で言うと、「ひらめきの人」ではなく、「粘りの人」である。何ヶ月にも渡って捜査が全然進展しないとき、彼は自分にこう言い聞かせる。いわばベックの信条ともいえるべきものであろう。

「マルティン・ベックは自分の身を正した。もし彼が事件解決の希望を捨ててしまったら、事件全体が引き出しに入ったまま、日の目を見る事がなくなってしまう。警察官として持つべき、三つの大切な素養を自分が持っている事を忘れてはいけない。それは、『粘り強いこと』、『論理的に考えること』、そして『落ち着くこと』だ。」(第一作、ロゼアンナより)

シューヴァルとヴァールーがマルティン・ベックの人物像を考案したとき、どこにでもいる警察官の典型、プロトタイプを考えたという。しかし、マルティン・ベックと、その他の登場人物には、五十年経った今も、人を引き付けて離さない「何か」がある。私自身、このシリーズにのめりこんだ時期があった。前述のルーズ・フランスも例外ではない。彼女自身が、マルティン・ベックとの出会いについて、以下のように書いている。

「私は数年前、偶然このシリーズに出会った。当然のこととして、第一作の『ロゼアンナ』から読み始めたのだが、掛け金が外れたようになり、普段の生活を忘れ、上司に嘘をついて、ベッドの中で、一冊また一冊と読んでしまった。それは強烈なミントの入った食べ物を、次から次へと口に入れているような経験だった。私は、主人公のマルティン・ベックに恋をしてしまうのではないかと心配になったくらいだ。」

私も、まさにそれに近い経験をした。

何故、マルティン・ベックがこれほど多くの人に愛されるのだろうか。それは、彼がひとりの「血の通った普通の人間」であるのが大きな理由だと思われる。今では当たり前のことだが、当時はそれが新しかったのだ。彼はスーパーマンではない。地味で、冴えない、ごく平均的な警察官として描かれている。そして、物語では、彼だけではなく、これまたごく普通の人間である彼の同僚が、地道な努力を重ね、力を合わせて事件を解決していく。その過程では、数週間、数ヶ月の間何も起こらないこともあれば、大きな無駄足もある。

それまでの推理小説の主人公は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズにしても、アガサ・クリスティーのエルキュール・ポアロにしても、一貫して「失敗をしない探偵」であった。彼等の行動は、全てが事件を解決するための伏線であった。また、その周囲の登場人物も、物語を前へ進めるためだけに存在していた。シムノンの「メグレ警部」シリーズあたりから、登場人物がだんだんと「普通の人間」、「悩める人間」になりはじめるが、まだまだ十分とは言えない。「悩める人間」が「試行錯誤を繰り返しながら」事件を解決していくという、現代の推理小説の定番は、この「マルティン・ベック」によって開かれたと言える。フランスも書いているが、ヘニング・マンケルの描く、悩める中年男クルト・ヴァランダーは、マルティン・ベックの血を引いている。マルティン・ベック以降、推理小説の探偵は、「慧眼のスーパーマン」ではなくなったのである。

「警察、警察、つぶしたジャガイモ」で描かれるマルティン・ベックのラブシーンはその象徴である。彼は、ホテルの部屋を深夜訪ねてきた女性とセックスをする。これまで、全裸の女性が前に立っても、ビクつくことのなかったベック、私には正直意外な展開であった。ともかく、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロが、物語の中で女性と関係したことがあっただろうか。

 マルティン・ベックは、独りで事件を解決するのではない。常にチームワークの勝利なのである。マルティン・ベックのチームには多彩な人物が揃っている。

l  コルベリ:ベックの良き理解者協力者。いつもシニカルな冗談を言う。

l  メランダー:ソーセージと水で生きていると言われる節約家。記憶力の天才。

l  アールベリ:苦労人で好感の持てる人物。

l  ルンドベリ:尾行の名人。

l  ラルソン:「熊」と呼ばれる大男。根は優しい。

l  スカッケ:若いドライな刑事。昇進欲が強い。

l  モンソン:マルメー警察の朴訥だが有能な刑事。

「マルティン・ベック」シリーズとは言いながら、「消えた消防車」辺りから、ベックは完全に調整役に回り、他のメンバーが主に行動する。ストーリー展開は集団劇となる。そして、同僚たちが、捜査だけではなく、私生活でも、色々なエピソードを綴っていく。例えば、「消えた消防車」で、若くて綺麗な妻を持つコルベリが、帰宅し、裸に薄物をまとっただけの妻を見て欲情してしまい、リビングルームのカーペットの上で事に及んでしまうとか。ディスコでも聞き込みを担当したスカッケが、「サタデーナイト・フィーバー」のジョン・トラボルタ張りの白いスーツで出かけて行き、女の子とダンスをしながら聞き込みをするシーンとか。笑えるエピソードにも事欠かない。

どの推理小説も、ある程度、捜査する側に都合の良い偶然が重なって、事件が解決に向かっていく。その「都合の良い偶然」に対して、作者が、マルティン・ベックを通じて語らせているのが興味深い。

「警察の職務にとって最も大切な点は、現実主義、決められたことを遂行する能力、系統的な考え方だ。しかし、多くの事件が偶然によって解決を見るということも確かだ。しかし『偶然』は『幸運』は取り違えてはいけない、別の概念である。犯罪の解明とは、『偶然』の網の目を出来る限り狭めていく作業なのだ。その際、天才的な閃きよりも、経験と勤勉がものを言う。良い記憶力と良識こそが、知的な考察力よりも価値のある才能なのだ。」

つまり、偶然は数々起こり得る。その偶然を、いかの自分の味方につけるかが、ポイントであると言うのである。

「消えた消防車」の冒頭、ベックは老人ホームに暮らす自分の母親を訪れる。母親は、ベックの息子のロルフも警察官になるのではないかと心配している。

「ロルフは、学校が終わったら警察官になりたいなんて、言い出さないでおくれよ。」

「それはないだろう。大体ロルフはまだ十三歳にもなってないんだ。そんな心配をするのはいくら何でも早すぎるよ。」

「でも、もしロルフがちょっとでもそんなことを考えていたら、おまえは思い留まらせなければいけないよ。どうして、おまえが警察になりたいなんて言い出したんだろうね。それに、今では以前に増して、警察は難しい仕事になっているじゃないか。マルティン、一体何を思ってそんな決心をしたんだい。」

二十四年前、彼の警察官になるという決意を、母親が同意していなかったと言うことは分かっていたが、今この場でそれを言い出されたことにベックは驚く。

「あれ、これと同じ会話、どこかで聞いたことがあるぞ。」

私は思った。ヘニング・マンケルのシリーズの中で、主人公のクルト・ヴァランダーとその父親の間で、繰り返される会話であった。時代に関係なく、息子が警察官になることを喜んでいる親は少ないと言うことである。

ベックの娘、イングリッドは、両親の家を出て、独り暮らしを始める。娘は、父親が、家で心から寛いでないこと、自分ひとりの時間を求めていることを感じている。別れ際に娘が父親に言った言葉が印象的であった。

「こんなこと、本当は言っちゃいけないんだろうけど、でも言っちゃう。どうして、お父さんも同じ事をしないの。家を出ないの。」

世の中のお父さんたちの多くが、出来ることなら、セカンドホームを持って、たまにはそこで独りきりで暮らしたいと思っているのではなかろうか。人間の臭いのするエピソードである。

作品も後半になる頃から、ベックはレア・ニールセンという女性を得て、安定してきた。レアは最初聞き役だったが、段々と事件の解決に大きな役割を果たすようになる。彼女は記憶力と、論理的な考えでは、ベック以上である。ベックは彼女との関係に対して、悩んでいる。彼は男女関係に関して、結構保守的な考えの持ち主なのである。

「どうして電話をくれなかったの。」

マルティン・ベックは答えなかった。

「お終いまで考え、その結末に満足できなかったからでしょ。」

「まあ、だいたいそんなところだ。」

「だいたい?」

「いや、まったくその通りだ。」

彼は認める。

「私たちが一緒に住めないとか、結婚できないとか、子供を作れないとか、そんなくだらないことを考えてるんでしょ。そうしないと、全部がややこしくなって、友情が崩れ去るんじゃないかって。消耗して壊れてしまうんじゃないかって。」

「その通りだ。それに対してきみにどう反論できるか、分かっているはずだ。」(以上、第十作、テロリスト)

「結婚に至らない男女関係はやめたほうがよい」、離婚を経験したベックでさえ、そんな考えを持っていたことが少し以外であった。しかし、この物語が書かれたのが、今から四十年以上前であることを考慮すれば、当時はそれが当然だったのかも知れない。

 ともかく、私生活の描写を通じたこの「人間臭さ」が、当時は新鮮で、センセーショナルであり、今も作品を魅力のあるものに保っているのだ。

 

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