先駆者マンケル、その成功の理由
マンケルの初期の名作、「デイジー・シスターズ」。ドイツ語訳は2009年まで待たねばならなかった。
結果的にマンケルのヴァランダー・シリーズの商業的な大成功が、その後、北欧犯罪小説ブーム、「ノルディック・ノワール」の先鞭となる。しかし、マンケルが、成功を収められた理由は何なのだろうか。
ベストセラーになる条件として、まず、書かれた小説が、少なくとも新聞や雑誌の書評欄に取り上げられなければならない。一年間にひとつの国の中で何十万冊という本が出版されている今の世に、読者が偶然本を書店で手にし、読み始めるというチャンスは皆無に等しい。やはり、新聞や雑誌、インターネット等のメディアを通じて、紹介される必要がある。世界的なベストセラーになるだけの内容と可能性を持った本が、単に知られることがなかったために、歴史から葬り去られたという事例は数限りなくあると思う。まずは、「マスコミに取り上げられること」が大切なのだ。
この点について、ドイツの批評家、アレクサンドラ・ハーゲングート(Alexandra Hagenguth)は以下のように述べている。
「ヴァランダー・シリーズの大きな成功に対する決定的な意味について、ヘニング・マンケルが、一九九一年に『顔のない殺人者』で犯罪小説作家としてデビューをする前に、純文学の作家として既に認知され尊敬を受けていた事実がある。」(1)
事実、ヘニング・マンケルは、純文学でも優れた作品を残しており、ヴァランダー・シリーズの前にも見るべき作品は多い。その中でも、私は一九八二年に書かれた「デイジー・シスターズ(Daisy Sisters)」を推したい。望まぬ妊娠によって、人生が変わる女性がテーマになっている。いずれにせよ、それ以前の作品で既に名前が売れていたマンケルは、犯罪小説を書き始めたとき、マスコミに注目されことにおいて、最初からかなり有利な位置にいたのである。
そして、彼の本は、読者を魅了するだけの、新しさがあった。先にも書いたが、「悩める主人公」、「徒労の描写」、「その時の社会問題の投影」、「チームワーク」等である。これらは、それ以降の犯罪小説のプロトタイプになっていく。( ただ、このうち、「その時の社会問題の投影」、「チームワーク」に関しては、シューヴァル/ヴァールーが先駆者と私は考える。)
「悩める主人公」、主人公が「いかに組織からはみだしているか」、「いかに個人的な悩みを抱えているか」ということが、それ以降の北欧の犯罪小説で競われていく。「捜査線上での徒労」が小説にリアリティーを与えるために、どんどん取り入れられていく。その結果、小説の長さもどんどん長くなる傾向が生じる。「その時の社会問題の投影」だが、ヴァランダー・シリーズの新作が出るとき、
「今度はどのような社会問題が扱われているのだろうか。」
と、私は何時も楽しみにしていた。サイバー犯罪、宗教のカルト問題など、当時話題になりはじめた出来事を、彼は積極的に題材に取り上げた。「チームワーク」についてであるが、ヴァランダーの魅力ある同僚たちについては、既に前章で述べた。
前述の、アレクサンドラ・ハーゲングートは更に、「読み易さ」ということを、北欧作家による犯罪小説の、世界的な成功の原因に挙げている。
「北欧の犯罪小説作家の特徴としてもうひとつ挙げられるのは、平易で理解しやすい文体である。」(2)
とハーゲングートは書いている。そして、その最たる者として、リザ・マークルンドとオーケ・エドワードソンを挙げている。ハーゲンルートは、二人が家である前にジャーナリスト、記者であったことを、その理由として推測している。つまり、彼らは記事を書くことを通じて、平易な文章を書くことに慣れ親しんでいたわけだ。
マンケルはジャーナリストではなかった。しかし、作家としての初期の作品から、ひとつの文の短い人であった。彼の作品の中には、関係代名詞が余り使われない。反対に、マンケルと同世代の別の作家、例えばウルフ・ドゥルリングやシャスティン・エークマンの作品を読んでみると、一章やひとつの文章がマンケルやその後の作家に比べて圧倒的に長いのに気付く。最近は、どの北欧のみならず、どの作家も章立ても随分短くなった。四、五ページで一章というのが普通になりつつある。それに慣れると、二十年、三十年前の小説の、一章の長さに出会うと、読んでいるのが苦痛になることがある。二十ページ以上章が変わらないというのは、読んでいて少々疲れる。ハーゲングートは「速い展開と、平易な言葉」をマンケルのみならず、北欧の犯罪小説作家の特徴として挙げている。別の言い方をすれば、常に「読者を意識して書く」、「読み易さを意識して書く」ということであろう。まさにその点が、マンケルの成功につながっていることは間違いない。
作品リスト:
クルト・ヴァランダー・シリーズ
l Mördare utan ansikte (顔のない殺人者)1991年(邦題:殺人者の顔、創元推理文庫、2001年)
l Hundarna i Riga (リガの犬たち)1992年(邦題:リガの犬たち、創元推理文庫、2003年)
l Den vita lejoninnan (白い雌ライオン)1993年(邦題:白い雌ライオン、創元推理文庫、2004年)
l Mannen som log (微笑む男)1994年(邦題:笑う男、創元推理文庫、2005年)
l Villospår (赤い鰊)1995年(邦題:目くらましの道、創元推理文庫、2007年)
l Fotografens död (写真家の死)1996年 短編集
l Den femte kvinnan (五人目の女)1996年(邦題:五番目の女、創元推理文庫、2010年)
l Steget efter (一歩遅れて)1997年(邦題:背後の足音、創元推理文庫、2011年)
l Brandvägg (防火壁)1998年(邦題:ファイアーウォール、創元推理文庫、2012年)
l Pyramiden (ピラミッド)1999年 短編集(邦題:ピラミッド、創元推理文庫、2018年)
l Mannen på stranden (海辺の男)2000年
l Handen (手)2004年 初版オランダ語
l Den orolige mannen (不安に駆られた男)2009年
リンダ・ヴァランダーの本
l Innan frosten (霜の降りる前に)2002年(邦題:霜の降りる前に、創元推理文庫、2016年)
その他の犯罪小説
l Danslärarens återkomst (帰って来たダンス教師)2000年
l Kennedys hjärna (ケネディーの脳)2005年
l Kinesen (中国人)2007年(邦題:北京から来た男、創元推理文庫、2016年)
その他の本
l Bergsprängaren (石を砕くもの)1973年
l Vettvillingen (故意の人々)1977年
l Fångvårdskolonin som försvann (消えた刑務所介護コロニー)1979年
l Dödsbrickan (死のトレイ)1980年
l En seglares död (船乗りの死)1981年
l Daisy Sisters (デイジー・シスターズ)1982年
l Sagan om Isidor (イシドールの物語)1984年
l Leopardens öga (豹の目)1990年 アフリカ・シリーズ
l Comédia infantil (子供たちの劇場)1995年 アフリカ・シリーズ
l Vindens son (風の太陽)2000年 アフリカ・シリーズ
l Tea-Bag (ティーバッグ)2001年
l Djup (海溝)2004年
l Italienska skor (イタリア製の靴)2006年(邦題:イタリアン・シューズ、東京創元社、2019年)
l Minnet av en smutsig ängel (汚れた天使の思い出)2011年 アフリカ・シリーズ
l Svenska gummistövlar (スウェーデンのゴム長靴)2015年
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(1) Alexadra Hagenguth, Der Mord, der aus der Kälte kommt: Was macht skandinavische Klimis so erfolgreich?, Fjorde, Elche, Mörder, Dear skandinavishce Kriminalroman, 2006, NordOark Verlag, Wuppertal, 22ページ
(2) 同上、33ページ
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