ヴァランダーを巡る人々
ヴァランダーの魅力的な人物設定が、シリーズが成功の大きな鍵になったことは先にも述べた。しかし、彼の魅力を一層引き立たせる、多彩な「バイプレーヤー」たちについても述べておきたい。
ポヴェル・ヴァランダー(Povel Wallander、父親):
父親が住んでいたとされるレーデルップの村。文字通り何もないところ。(筆者撮影)
何と言っても、この人なしには、ヴァランダーは語れない。そんな重要人物。妻を亡くして独り暮らし。人里離れた村に住んでいる。画家である。何十年も同じモティーフの絵を延々と描いている。「海に沈む夕日」の絵、厳密に言うと二種類あり、「オオライチョウ」が描かれているのと、描かれていないのがある。
父親は、ヴァランダーが警察に入ることに反対する。ヴァランダーが警察官になってから、ふたりの関係はしっくりいっていない。何年経っても、ことあるごとに、父親はヴァランダーに、何故警察などに入ったのだと文句を言い、ヴァランダーは、それが鬱陶しくて仕方がない。また、忙しい時に限って、父親が職場に電話を架けてくることにも苛立つ。
何故、父親は息子が警察官になることに反対だったのか。読んでいくうちに分かってくる、このお父さん、古風で頑固な人のように見えるが、結構リベラルで、息子が「国家権力の手先」になることに耐えられなかったのだ。息子との関係はしっくりいっていないが、孫娘のリンダとの関係は結構上手くいっている。ヴァランダーが父を訪れると、自分のところに戻って来なかった娘が、父親のところには寄っていたと聞かされ、驚くシーンがある。
イタリアやエジプトなど、古代文化、古代芸術の中心となった場所を訪れ、そこで生の芸術に触れるのが父親の夢。彼は、何とかエジプト行きを実現するが、ピラミッドに登ろうとして逮捕される。そして、そこで罰金を払うことを拒否し留置所に入れられる。結局、ヴァランダーがカイロへ出向いて罰金を払い、父親の身元を引き受けるというエピソードがあった。(1)
第一作で既にアルツハイマーを発症し、時々精神錯乱を起こし、彷徨が始まる。しかし、驚いたことに、第三作で、七十歳を越えて、二十歳年下のイェルトルードと再婚するのだ。彼女は、父親の身の回りの世話に派遣されてきた女性だった。
ヴァランダーは父との関係改善を試みる。そして、第六作で、父親と一緒に、長年の夢だったイタリア旅行をする。ヴァランダーはローマで嬉々とする父親を見て、いよいよ、ふたりは普通の父子の関係に戻れると確信する。しかし、帰国の直後、父親は亡くなる。
私がイースタッドを訪れた二日目、スコーネ地方は深い霧だった。午後になり、霧は少し晴れてきた。夕暮れまでにはまだ二、三時間ある。私は、ヴァランダーの父親の住んでいた(ことになっている)村、レーデルップを訪れてみることにした。車で、イースタッドからマルメーとは反対の、東へ向かって走り出す。 レーデルップは実に何もないところだった。畑が広がり、その中にポツンポツンと農家が立っているだけ。道行く人も無い。何キロも他の車とすれ違わない。父親はかつての農家を改造した家に住んでいたことになっている。道の脇にそれとそっくりの家があった。その家は、住んでいる人の性格を表しているように思えた。
ヴァランダーは、彼は自分が年齢を重ねるにつれ、外見、考え方とも、父親に似てきたと自覚する。この点、私も父の死に接して、同じようなことを考えていたことがあった。父親とは性格がまるで反対だと思っていたのだが、父親の最期を迎えて、父親と似てきた自分を感じた。ヴァランダーの父親はアルツハイマーであった。ヴァランダーの恐れは
「自分もアルツハイマーになり、記憶を失っていくのではないか。」
という点である。果たしてそうなるのか・・・その答えは最後の本の最後のページにあった。(2)
リンダ・ヴァランダー(Linda Wallander、娘):
Johanna Sällström
as Linda Wallander and Krister
Henriksson as Kurt Wallander
2004年「霜の降りる前に」の撮影中。写真提供Before Nine.
リンダはクルトと妻のモナの一人娘である。ティーンエージャーの時、家を飛び出し、演劇を志し、ストックホルムで独り暮らしを始める。黒人のボーイフレンドを連れてきて、父親を驚かせたこともあった。後に、父の後を追って警察官になることを決め、警察学校を卒業した後、イースタッド警察署に配属される。
彼女が何故、警察官を志したのか、「霜の降りる前に」に書かれている。リンダは十代のとき、高速道路の橋から飛び降りて死のうと思い、橋の欄干に立つ。そのとき、若い女性警官の説得により、自殺を思いとどまる。リンダが警察官を志した理由のひとつがその事件であるという。(3)
彼女の特技は、カメラのような記憶力「オプティック・メモリー」を持っていること。「霜の降りる前に」でも、その特技を発揮し、一瞬にして書類の内容を記憶して、捜査の成功につなげている。(3)
リンダと父親のクルトの関係だが、ティーンエージャーの頃は最悪、リンダが大人になるにつれ、父親のよい話し相手になっていたこともあった。しかし、彼女が同じ警察署で働くようになってからは、またまた、口喧嘩の連続になっている。彼女自身が、
「父と私は糞の山の上で戦っている二匹の鶏のようなもの。」(3)
と述べている。
いずれの時代も、いずれの国にでも、親と子は同じ職場では上手く行かないのは当然。私事になるが、妻が一時期自分の子供にピアノたちを教えようとした。結果は最悪。子供は泣き出すし、妻は怒り出すし。結局、うちの子供たちは、別のピアノの先生についた。つまり、公私の「交」の場で、親子関係は基本的に悪い方にしか働かないである。肉親に対しては、忍耐力、自制心がうまく機能しないものなのだ。
しかし、父と娘はやはり似ていた。父のクルトも、「捜査中はひとりで行動してはいけない」という警察の鉄則を無視して、しばしば単独行動を取る。その結果窮地に陥ることもあるし、また、その結果犯人に肉薄できることもある。クルトは、捜査班にチームワークを要求するものの、基本的には一匹狼なのだ。リンダも同じであった。父親の助言を無視して、単独で追いかける。その結果窮地に陥る。父親と全く同じパターンである。
リンダは結果的には結構「玉の輿」に乗っている。ハンス・フォン・エンケという、コペンハーゲンで働く金融ブローカーと知り合い、子供を設ける。(4)
「ヴァランダー」シリーズは、最初、警察官になった娘のリンダ・ヴァランダーによって引き継がれるのではないかと予想された。私もそれを期待した。しかし、テレビのシリーズでリンダ役を演じていた、ヨハンナ・セルストレーム(Johanna Sällström)が自殺した後、それにショックを受けたマンケルは、リンダを主人公にしたシリーズを断念してしまう。(5)リンダ・ヴァランダーを主人公にした本は、二〇〇四年に書かれた「霜の降りる前に」ただ一冊になってしまった。マンケルが念頭に置いていた新しいシリーズは、不幸な出来事によって実現することがなかった。残念である。
モナ(Mona、別れた妻):
モナはあまり登場しない。というのも、第一作の冒頭で、ヴァランダーと別居し、後に離婚しているからである。ただ、若いころのクルト・ヴァランダーを題材にした「ピラミッド」で、クルトとモナが結婚した経緯が描かれている。モナがヴァランダーと別れてから、新しいボーイフレンドを作ったという話は、全作を通じて、リンダからの話という形で紹介される。ボーイフレンドがひとりであるのか、複数なのかは分からない。しかし、これもリンダの話で、結局、モナは独りで暮らしをしていることが伝えられる。
マンケルはヴァランダー・シリーズを八作まで発表した後、ヴァンだーの若いころのエピソードを綴った短編集「ピラミッド(Pyramiden)」を一九九九年に発表した。その中で、一九六九年、マルメーの警察に勤め始めたばかりの二十一歳のクルト・ヴァランダーが描かれている。彼は、マルメー警察署の防犯課に配属されており、反戦デモの警備などに借り出されていたが、捜査課への転任を望んでおり、近く転籍することになっていた。ヴァランダーはモナと付き合い始めたが、すれ違いばかりで、彼女との仲はぎくしゃくしていた。しかし、重傷を負ったクルトをモナが看病することで、ふたりの関係は好転する。
また、次のエピソードは一九七五年、ヴァランダーは近々マルメー署からイースタッド署に移ることになっており、家族を既にイースタッドに住まわせていた。結婚して六年が経ち、娘のリンダが産まれてはいた。しかし、ヴァランダーとモナ仲はうまくいかず、彼らは些細なことで口喧嘩を繰り返していた・・そんな設定になっている。そして、次は、第一作での別居、離婚である。
最終作で、ヴァランダーが田舎に買った家に戻ると、別れた妻、モナが彼を待っていたというシーンがある。モナはアルコール中毒で、感情の起伏が激しい。モナは一晩泊まっただけで、翌朝ヴァランダーの家を去る。夏至のパーティーを開く。そこに再びモナも招待される。しかし、そこでも、最後はヴァランダーとモナが口論を始め、怒ったモナは立ち去る・・・つまり、クルト・ヴァランダーとは、口喧嘩のシーンばかり。ふたりとも基本的に譲ることをしない人間なのだ。そんなふたりが一緒に住めばどうなるか、何処の国でも同じである。
バイバ・リーパ(Baiba Liepa、一時的な愛人):
ヴァランダー・シリーズで、唯一、クルトが愛した女性として登場するのがバイバ・リーパである。彼女は第二作の「リガの犬たち」で登場する。旧共産圏からと思われる他殺死体の乗ったゴムボートがイースタッドの海岸に漂着。その捜査にラトビアからリーパ少佐が派遣されてくる。リーパは遺体とともにスウェーデンを去る。しかし、リーパがリガに帰着したその夜、何者かに殺害されたという知らせが入る。その捜査のために、ヴァランダーはリガへの出張を要請される。
ラトビアの首都リガのホテルに、ひとりの女性が訪れる。殺されたリーパの妻バイバであった。一度スウェーデンに帰ったヴァランダーだが、彼女を助けるために、再び単身ラトビアに乗り込む・・・バイバは、聡明で現実的だが、どこか神秘的な女性として描かれている。ヴァランダーはその沈着さ、落ち着きに魅かれたようだ。第三作以降で、ヴァランダーとバイバが、しばらく国境を越えた関係を続けていたことが書かれている。
最終作で、バイバは何年ぶりかにヴァランダーを訪れる。彼女は、癌に侵されていた。彼女はヴァランダー・シリーズの「幕引き」として登場する。そして、それに最もふさわしい人物だったと思う。何となく、神秘的な印象を残して、バイバは去って行く。
リュドベリ(Rydberg、同僚):
ヴァランダーの師匠である。ヴァランダーの捜査術は、かなり直感によるところが多い。「何かがおかしい」とふと感じたところに、執拗にかじりついていく。直感とねばりの人と言って良い。彼にアドバイスを与えるのが、大先輩のリュドベリである。ヴァランダーは自分の直感をいつもリュドベリに話して、彼の意見を聞き、軌道修正を行っている。しかし、一作目でリュドベリは癌に侵されており、第二作目で死亡する。しかし、その後も、
「リュドベリだったらどうするか。」
と考えることにより、ヴァランダーは自分の次の行動を決めている。
職場において、「師匠」とも呼べるよい先輩を持つことは幸せなことだと思う。私も何人かそんな方にお会いし、
「あの方だったらどうするだろうか。」
ということを、ひとつの行動規範にしていた。リュドベリは、最初に亡くなりながら、全作を通じての登場人物である。
アン・ブリット・ヘグルンド(Ann-Britt Höglund、同僚):
ヴァランダーの同僚として、アン・ブリット・ヘグルンドが登場する。警察学校を優秀な成績で卒業した、イースタッド警察署捜査課にとっては初めての女性刑事である。優秀な女性の出現に、皆何となく遠慮をし、疑心暗鬼をおこし、ヴァランダーの同僚、ハンソンなどは研修にかこつけて職場に出て来ない。アン・ブリットに対する、嫌がらせもある。女性の社会進出の先進国スウェーデンでさえ、女性の職場進出に対する男性の反応がこんなものなのかと、私は少々驚いた。
ともかく、ヴァランダーは彼女の刑事としての素質を見抜く。彼女に推理や捜査方針を話すことにより、自分の考えをより論理的に整理できると考える。ヴァランダーは彼女を、最も重要なパートナーとして選んでいる。人に話すことにより、自分の考えをまとめるというのは、私もよくやる手であるが、そのときには聞き役が大切であることは言うまでもない。そう言う意味ではアン・ブリットはヴァランダーにとって、最高の聞き役なのであろう。
彼女は美人として描かれている。牧師になろうとしていたが、強姦されてから警察官を目指したという過去もちらりと語られる。
「霜の降りる前に(Innan frosten)」では、 過去に起こった出来事が、リンダの目から違う角度から改めて語られる。アン・ブリットはこれまでクルトの視線から、容姿もよく、聡明で、クルトの一番の相談相手として肯定的に描かれていた。しかし、リンダの目には、「太り始めた、意地の悪い、中年のおばさん」としてしか映っていない。これには、正直笑ってしまった。
マグヌス・マルティンソン(Magnus Martinsson、同僚):
ヴァランダーの部下として終始捜査に協力する。黙々と仕事はこなすが、常識的で、家庭的。常に、家族を大切にする人として描かれている。どちらかというと、地味な役割であった。しかし、一九九八年の「防火壁(Brandvägg)」で、マルティンソンには重要な役割を果たす。彼はコンピューターに強よかったのである。「防火壁」は今で言うサイバーアタックをテーマにした作品であったが、警察側でのエキスパートはマルティンソン。ハッカーと対等に戦えるだけの技量を備えた人ということで、大した人なのであった。一度だけでも主役を取れてよかったという感じ。
カレ・スヴェドヴェリ(Kalle Svedberg、同僚):
若手の優秀な捜査官。無口で何を考えているのか分からない面もある。ところが、彼は「一歩遅れて(Steget efter)」で自分のアパートで殺されているのが発見される。そのとき、
スヴェドヴェリは、休暇中だった。当時、三人の若い男女が行方不明になる事件が起こっていた。ヴァランダーが捜査を開始するが、スヴェドヴェリが休暇中、独自に、若者の行方不明事件の調査をしていたことが分かる。捜査を進めるうちに、スヴェドヴェリは、同僚の知らない一面を持っていた。彼は、同性愛者であったのだ。
主役以外の登場人物を犠牲者にしてしまうパターンは多々ある。しかし、余り重要な人物はその役割から外される。スヴェドヴェリはそのギリギリというところであった。しかし、私にとっては、ヴァランダーの同僚、部下として、一番印象に残る人物である。
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(1) 「ピラミッド」Wallanders erster Fall, Die Pyramide, Deutscher Taschenbuch Verlag, München, 2004,の中のエピソード。
(2) 「不安に駆られた男(Den orolige Mannen)」2009年の結末。
(3) 「霜の降りる前に(Innan frosten)」2002年に登場するエピソード。
(4) 「不安に駆られた男(Den orolige mannen)」2009年を参照。
(5) これについては、バリー・フォーショー(Barry Forshaw)がDeath in a Cold Climate, A Guide to Scandinavian Crime Fiction, Palgrave Macmillan, Basingstoke, UK, 2012、23ページで述べているが、出典は明らかにされていない。