マンケルと私
ヴァランダーが働いていたことになっているイースタッド警察署。(筆者撮影)
ヘニング・マンケルは、私が、生涯で最も衝撃と影響を受けた作家のひとりと言ってよいのではないだろうか。彼の作品は全て読んだ。私がどれだけ、マンケルに傾倒していたか、その証として、私が「クルト・ヴァランダー」シリーズの舞台になったイースタッドを訪れたことを挙げさえせたいただきたい。ヴァランダーの「虜」になった日本人の読者は数多いと思うが、実際、ヴァランダーの働いていた(ことになっている)イースタッド警察署の前に立った日本人は、何人いるだろうか。おそらく、十人以下ではないかと思う。
マンケルの「クルト・ヴァランダー」シリーズは、ほぼ出版された順に読んだ。最初の「顔のない殺人者」を読んだときは、まさに衝撃だった。新しい形の推理小説、犯罪小説がそこにあると感じた。
まず、主人公のクルト・ヴァランダーの設定が新しかった。今でこそ、組織に溶け込めない「はみだし刑事」が、警察を舞台にした小説の定番になっている。しかし、今から二十年以上前、一九九一年当時はそうではなかった。都会に住む優秀な刑事が、あるいは物知り顔の探偵が、テキパキと事件を片付けていくパターンが多かった。彼らは「事件を解決するため」に存在し、その範囲でしか描かれていなかった。
スウェーデン、スコーネ地方の小都市、イースタッド警察署で働くクルト・ヴァランダーは妻に逃げられ、父親と娘との関係も上手くいかない、私生活に問題を持った中年男。警察署の自動販売機のコーヒーをガブ飲みし、ファストフードの店に通い、不健康な食生活をする独身男である。おまけに、酒気帯び運転で、同僚の警官に捕まってしまう。また、新しく来た女性検事の身体を触ろうとする、セクハラ紛いのこともやる。それまで、刑事なり探偵なりの私生活が、ここまでみじめで、それを赤裸々に描いた小説はなかった。それだけに、ヴァランダーの設定は斬新だった。(今は、それが当たり前になっているが。)
次に、「徒労」が新しかった。「顔のない殺人者」では、残忍な方法で殺された、農家の老夫婦の犯人を、ヴァランダーと彼のチームが追う。色々な容疑者が捜査線上に浮かぶが、その糸の多くは途中で断ち切れている。もちろん、最後には犯人が見つかるのだが、そこに至るまでの捜査の過程の大部分が、結末と全然関係がない。つまり「徒労」の部分が、延々と描かれているのである。しかし、実際の捜査とはそのようなものだと思う。集められた膨大な情報の大部分が、事件の解決に結びつかない。多くの情報を分析し、取捨選択し、最後に残ったわずかな情報だけが、真実へと導いてくれる。その意味では、マンケルにより丁寧に描かれる「徒労」は、奇妙な現実味を彼の小説に与えていた。それが新鮮だった。
マンケルの作品に触発される形で、私は北欧の犯罪小説を読み始めた。一九七〇年代に出版され人気を博した「古典」とも言える、マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールーの「マルティン・ベック」シリーズの作品を読み、マンケルが彼らから多大な影響を受けていることを知った。英国人のジャーナリスト、ルイーズ・フランス(Louise France)も、シューヴァルに対するインタビュー記事の冒頭で、
「彼ら(シューヴァル/ヴァールー)なしには、イアン・ランキン(Ian Rankin)の『ジョン・リーバス(John Rebus)』シリーズや、ヘニング・マンケルの『クルト・ヴァランダー』シリーズも生まれなかっただろう。」(1)
と述べている。影響が見られるのは、具体的に、以下の二点に於いてである。
1. 主人公の刑事が単独で事件を解決するのではなく、彼の同僚にも活躍の場が与えられ、チームとして事件が解決されること。
2. その時々の社会問題が織り込まれていること。
探偵が「灰色の脳細胞」を使って、単独で事件を解決していたのは、明智小五郎、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロの時代。二十世紀の後半からの捜査は、指紋はもとより、DNAをはじめとする科学的な分析、コンピューターを使った情報収集と分析、犯罪心理学を使った犯人像の分先等が、警察による捜査の中で、重要な位置を占めている。従って、それぞれの分野のスペシャリストが必要になってくるわけで、彼らとチームを組まないで、単独で事件の解決を目指すのは、極めて非現実的ということになる。チームとしての捜査を最初に作品に取り入れたのがシューヴァル/ヴァールー、マンケルもそれを踏襲している。
共産主義者であったシューヴァル/ヴァールーは、その作品で、当時の社会問題を取り上げている。シューヴァル自身が、上記のインタビューの中で、
「『福祉国家』というスウェーデンのイメージの裏に存在する、貧困、犯罪、暴力など別の層があることを読者に訴えることを目的に(マルティン・ベック・シリーズを)書き始めた。」(1)
と述べている。
マンケルのヴァランダー・シリーズの作品にも、その時々の社会問題が織り込まれている。
l 「顔のない殺人者(Mördare utan ansikte、1991年)」移民問題。
l 「リガの犬たち(Hundarna i Riga、1992年)」東欧社会主義の崩壊
l 「白い雌ライオン(Den vita lejoninnan 1993年)」アフリカにおける人種差別
l 「微笑む男(Mannen som log、1994年)」スウェーデン社会のおける貧富の差
l 「赤い鰊(Villospår、1995年)青少年の犯罪
l 「五人目の女(Den femte kvinnan、1996年)」アフリカでの内戦、傭兵問題
l 「一歩遅れて(Steget efter、1997年)」同性愛
l 「防火壁(Brandvägg、1998年)」サイバー犯罪
l 「霜の降りる前に(Innan frosten 2002年)」宗教的なカルト
l 「不安に駆られた男(Den orolige mannen、2009年」東西冷戦、スウェーデン国防問題
マンケル自身も九作目の前書きで、それまでの八作の「ヴァランダー」シリーズを「ヨーロッパの動揺を描いた小説」であると総括している。
「九十年代、ヨーロッパの法治国家に何が起こったか、法治国家の基盤が揺るぎ始めた今、民主主義はどのように生き延びていけばよいのか。」
それについて書きたかったという。
冒頭にも書いたが、二〇〇五年二月、私はイースタッドの駅を降り、イースタッド警察署の前に立った。(2)いかにも田舎の警察署という、小さな、飾り気のない建物であった。警察署の前には、小説の中でもしばしば登場する「水道塔」が立っていた。そして、そこの立った私の感慨の深さは言葉で言い表せない。その日から三日間、私は、ヴァランダーの小説に登場する場所を順に巡った。ヴァランダーが訪れたピザ屋や、彼の父親が住んでいたとされる村まで。実に何もない場所だった。そして、その「何もなさ」、「さり気なさ」に感動した。しかし、あんな小さな町で、小説のように十何人が殺されたら・・・ものすごい犯罪率の高さになるだろう、そう思うと可笑くなった。イースタッドは港町。ポーランドとの間を結ぶフェリーが出ている。港に泊まっているヨットを見ていたら、そのオーナーが中を案内してくれた。
ヴァランダーが住んでいたことになっていた、マリアガタン。角が古着屋になっていた。(筆者撮影)
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(1) The queen of crime、 2009年11月22日、英国「オブザーバー」紙、日曜版に掲載。
(2) 詳しくは私のウェッブサイト、「ヴァランダーを追いかけて」(2005年)を参照いただきたい。http://www.poyoko.co.uk/ystadhome.htm