石を投げればトルコに届く
船は、おもちゃの村のようなシミ島を後にする。
四時少し前に船に戻った。帰路も例によってドイツ人で一杯。座る場所がないので、食堂から椅子を持ち出し、甲板に並べて座る。隣に座った年配のドイツ人男性と話す。単に日向ぼっこをしに来ている人が多い中で、彼は非常によく勉強していた。ギリシアの歴史に詳しい人で、色々と面白いこの辺りの話が聞けた。その中でも面白かったのは、ギリシアとトルコの間の領土交換の話。
昔は、今のトルコ領にも沢山のギリシア人が住んでおり、エーゲ海の島にも沢山のトルコ人が住んでいた。一九二二年、トルコ軍がそのギリシア人の住む町々を占領したのをきっかけに、紛争が起こった。トルコ領内のギリシア人が虐殺されたという。その解決策として、一九二三年のローザンヌ条約が結ばれ、トルコ領内に住むギリシア人とギリシア領内に住むトルコ人の強制交換が行われた。その後、トルコ領内のキリスト教会は破壊され、ギリシア領内のモスクは破壊されたという。何十万人の人達がそっくり入れ替わったわけだ。ロードス島自体は、第一次世界大戦後イタリアに占領され、ギリシア領となったのは、第二次世界大戦後の一九四七だそうだ。
「お詳しいですね。」
僕はそのドイツ人男性の博識に感心した。僕ももう少し歴史を勉強してみたいと思った。
目の前に陸地があるが、そこはもうトルコ。どこも殆ど植物の生えていない禿山だ。
「石を投げたらトルコに届くで。」
と僕は妻に言った。
船は午後六時少し前、かつての軍港の入り口まで来る。同じ場所を通って聖ヨハネ騎士団は島を去った。五ヶ月の間、トルコ軍の猛攻に耐えた騎士団も、最後には弾薬が尽き、スレイマン一世からの提案された停戦と街の明け渡しに応じたのだ。「ロードス島攻防記」ではその場面を次のように描いている。
「騎士団長や大司教が乗りこんだ旗艦サンタ・マリア号は、三本マストの戦闘用帆船なのだが、他の六隻に比べて一段と大型にできている。艦長は、イギリス人の騎士サー・ウィリアム・ウェストン・この船が出港の先頭を切った。
旗艦に続いて、他の船も一隻ずつ、船着場を後にする。ロードスの城壁の内からは、誰が鳴らすのか、教会の鐘がいっせいに鳴りはじめた。(・・・)
旗艦を先頭にした船の列が、軍港の入り口をかためる聖ニコラの要塞の前を通りすぎようとしたときだった。要塞から、砲音がひびきはじめた。スレイマンが命じた、礼砲だった。騎士たちは、無言で、離れていくロードス島を見つめていた。誰もひとこともなく、船上に立ちつくしていた。」
僕達の船は、その聖ニコラの要塞の前と、二匹の鹿の像の間を通り、船着場へ向かった。ちなみに聖ヨハネ騎士団は、その後同じく地中海のマルタ島に移り、そこを要塞化した。そして、マルタ島がナポレオンに占領される十九世紀の初頭まで存続したという。
船は、聖ニコラ要塞の前を通り過ぎ、ロードス港に入った。