人はこれ以上何を望むのか

Was Will Man Mehr

2011

 

 

<はじめに>

 

さて、三部作のいよいよ最後である。第二作目で落ちるところまで落ちたパウル・シューベルト、どのようなきっかけで上昇気流に乗るのか。

 

<ストーリー>

 

パウルはベルリンからロンドンに向かう、格安のバスの中で、マリガン神父の隣に座っていた。パウルは、ビールを飲み続けている米国人の神父から、若い頃、ベティ・クロウリーという女性に恋をし、それが破れたショックで、聖職に就こうと決心したという顛末を聞く。パウルもイリスという意中の女性がいたが、彼女が他の男と結婚してしまったこと、今でも彼女のことが忘れられないことを神父に話す。パウルは数日前に、イリスの妹のオードリーの訪問を受けた。オードリーは臨月であった。オードリーはお腹の子は、パウルのものだと言う。パウルはその出産に立ち会うために、なけなしの金をはたいて、ベルリンからロンドン行のバスに乗ったのだった。バスはフランスのカレーの手前で故障。乗客は歩いてフェリー乗り場へ行き、ドーバー海峡を渡る。

ロンドンに着いたパウルは、オードリーとイリスが住んでいる小さなコテッジへと向かう。持っていたドイツの出版社の経営が傾き、フォン・ボイテン一家は、経済的に困窮していた。パウルを迎えたのは、泣き止まない赤ん坊を抱え、すっかり所帯やつれしたイリスであった。イリスは、写真家のオードリーが、海外援助のボランティアの取材のために、アフリカのコンゴへ行ったことを告げる。出産予定日は数日後に迫っていたが、ボランティアには医師も同行しているので大丈夫だと言う。イリスは、フォン・ボイテン家のメンバーが、パウルが出版社を倒産に導き、自分は直前で逃げたと考え、パウルを恨んでいると話す。パウルは、イリスと夫のティモシーを助けるために、自分は身を引いたのだと説明する。

パウルはイリスに電車賃を借りて、イリスの叔母のメリッサと一緒にフィットネス・スタジオを経営する、元同僚で友人のシャムスキーを訪ねる。パウルがそこで働こうとあてにしていたフィットネス・チェーンは、倒産と同時に債権者に持って行かれ、メリッサとシャムスキーに残されたものは、古いスタジオだけであった。職を得ようと考えていたパウルはがっかりする。彼は、オードリーの働くボランティア団体の事務所を訪れ、そこで、オードリーがコンゴで男の子を出産したことを知る。

彼は、電車を乗り越して、深夜にイリスの家に戻る。イリスはティモシーに会うためにドイツへ行ったとのこと。彼は、庭の寝椅子で眠る破目になる。翌日、再びボランティア団体の事務所を訪れたパウルは、オードリーとインターネットを通じて話すことに成功する。オードリーに抱かれた赤ん坊を見て、父親になったパウルは、一種の感銘を受ける。しかし、オードリーが男の子をアフリカ風に「ドラギヨナラ」と名付けたことから、ふたりは口論となる。

パウルは再び、シャムスキーを訪ねる。ふたりは子供が出来たことに対する祝杯を挙げる。パウルはイリスから、

「祖母のエリザベトがとんでもないことになった。」

との連絡を受ける。パウルはてっきり、エリザベトが怪我をしたか死んだと思う。しかし、エリザベトが酒を飲みはじめ、煙草を吸い出したということが、イリスの言う「とんでもないこと」であった。イリスはパウルに、直ぐにエリザベトの泊まっている高級ホテルに行って、様子を見て来て欲しいと依頼する。パウルはジョギングウェアのままホテルへ向かう。パウルを不審に思うホテルのコンセルジュを何とか煙に巻いて、パウルはホテルのバーに入る。果たして、エリザベトは煙草を吸いながらジンフィズを飲んでいた。勧められるままに、ジンを飲み続けたパウルは、酔いつぶれて、意識を失ってしまう。翌朝パウルが目を覚ますと、裸でエリザベトの部屋のベッドに寝ていた。エリザベトがバスルームから出て来る。ドアをノックする音が。エリザベトが開けると娘のメリッサであった。彼女は、パウルが八十歳になる母親と寝たものと誤解する。

その後、パウルはコテッジで、他のフォン・ボイテン家のメンバーと一緒に暮らすようになる。彼は新聞配達のアルバイトを始める。二ヶ月ほどして、パウルは自分が、一家の中で、単に「走り使い」としてしか扱われていないことに不満を持ち始める。シャムスキーは、

「これまで、他人に命令していた『偉大なパウル』だという気持ちを捨てろ。」

と助言する。また、フィットネス・スタジオの客も、パウルに、

「今こそ自分を変革する時だ。」

と言う。

パウルはオードリー今後のことを話し合おうと思う。クリスマスが近づく。料理の準備をしているパウルにオードリーが話しかけるが、ふたりとも感情的になって爆発してしまう。他のフォン・ボイテン家のメンバーはもちろんオードリーの味方をする。パウルは、身を引き、ドイツへ戻る決心をする。彼にとって、生まれたばかりの自分の息子と別れるのは辛いことであったが。

シャムスキーも倒産した出版社の残務整理のためにドイツに戻っていた。その中で、シャムスキーは、会社の経理に不正があり、それが自分に押し付けられようとしていることに気付く。そのまま行くと、彼は背任の罪で逮捕、起訴されることは時間の問題であった。陰で糸を引いているのは、ティモシーであることは明白だが、巧妙なやり方で仕込まれており、証拠がない。

ブロンコがドイツに戻っているということで、パウルとシャムスキーは彼の住所を訪れる。そこは、外交官の済む、超高級マンションの一画であった。スイスのジュネーブで奨学金をもらって絵の勉強をしていたブロンコだが、スイスの外交官の夫人をパトロンに見つけ、リッチな生活が保障されていたのであった。パウルとシャムスキーはギュンターの力を借り、出版社のコンピューターにハッキングをかけ、ティモシーの企みの証拠を押さえようとする。四人は、夜出版社に忍び込み、コンピューターの中身のコピーを試みる。そのとき、深夜にも関わらず、ティモシーとコンスタンティンが会社に現れる。ふたりの会話を盗み聞いて、パウルは会社を倒産させ、資産を着服しようとするティモシーの計略を知る。パウルは、その証拠書類を持ち帰り、元妻の同僚の弁護士に見せ、ティモシーを告訴する準備を始める。パウルにとって、ティモシーの裏切りをイリスに伝えるかどうかが大きな悩みであった。彼は、イリスに全てを打ち明けようと英国に渡る。そして、あるインド・レストランでイリスに、彼女の夫の裏切りを告げる。その後イリスの盗った行動は、誰もが予想しないものであった・・・

 

<感想など>

 

残念ながら、この三部作、回を追うごとに興味が薄れた。最後の最後に盛り上げようという作者の意図は分かる。しかし、それまでがちょっと長すぎる。花登筺の脚本ではないか(もうこんなことを言っても知っている人は少ないだろうが)パウルがこうもフォン・ボイテン家のメンバーからの苛めの対象となるのは、読んでいてかなりイライラする。喜劇であるから、シェークスピア時代からの「お約束」通り、愛しているカップルが一緒になって「めでたしめでたし」になる。それは読んでいる方は既に分かっているのだ。実際そうなりながら、しかも読者に爽やかな読後感を与えるというのが、作家の腕というもの。余り否定的な感想は書きたくないが、三作目に限って言えば、成功とは言えない。

今回の舞台の大部分はロンドンである。フォン・ボイテン家の人々、またパウル、シャムスキー、ギュンター、ブロンコはドイツ語で話していると想像される。しかし、ボランティア団体のメンバー、フィットネス・スタジオの客などは英国人であるからして、当然英語で話すということを想像してしまう。しかし、全ての登場人物が何の注釈もなく、ドイツ語を話している。私は、吹き替え映画を見ているような印象を受けた。

四人組の中で、第一作か第二作の半ばまでは、パウルとシャムスキーがリーダーで、ギュンターとブロンコはお荷物という設定。それが、三作目になって完全に逆転、金も、知恵も、イニシアチブも、ギュンターとブロンコが持つことになる。この転換が面白かった。

もうひとつの面白さは、主人公のパウルの変化である。彼は逆境の中で変わったのかという点。彼は、元々、仕事も出来て、友人に対する面倒見も良い好漢として描かれている。しかし、逆境の中で、文句ばかり言うパウルを見て、シャムスキーやジムの客は「自分を変えろ」と言う。パウルは「現状を受け入れ、文句を言わない」という決心をする。しかし、それは、言うほど簡単なことではない。しかし、人生の中で、全てが自分の思うようにはならない。いや、自分の思うようにならない事項の方がはるかに多いのである。幸せな人生を歩むためには、清濁併せ飲むというか、現状を受け入れイライラしないという態度こそが大切だと改めて感じた。そして、それが簡単でないことも。

 

20157月)

 

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