御土居の謎
御土居、同級生の土居君のあだ名でもあった。
正午にG君と会う。ふたりで喫茶店に入る。彼は相変わらずヒゲを剃っていない。僕も休暇中は滅多にヒゲをそらない。昼間の喫茶店でヒゲ面の五十男がふたりで、ホットケーキとコーヒーゼリーを食っているというのは、何となく悲惨な光景かも。ちょっと見には失業者の集いのよう。
「どう、職探しの方は。」
と僕が尋ねる。G君は農学博士号を持っているが、最近は外務省の嘱託で、海外援助の仕事をやっていることが多い。つい最近までは太平洋に浮かぶソロモン諸島にいた。
「昨日その件で東京へ行ってきたんやけど、次の仕事はガーナか、モンゴルか、フィージーかパプア・ニューギニアか、そんな所になりそう。」
と彼は言う。アフリカはちょっと引いてしまうし、モンゴルも朝青龍で印象が悪い。
「フィージーなんか良いんじゃない。」
と自分が遊びに行く都合だけで、勝手なコメントを入れる。
その後、彼は京都大学に用事があるというので、ふたりは京大に向かって歩きだした。彼は僕を「京都大学総合博物館」という建物に連れて行ってくれた。ちょうど「いま、御土居がよみがえる」という特別展示やっていて、ふたりでそれを見た。
その展示会のパンフレットによると、
「御土居は、高さ三メートルほど、全長二十三キロメートルに及ぶ、大規模で分厚い土の壁です。築造したのは豊臣秀吉です。以来、二百五十年余りの長きにわたって、京都の町を囲んでいました。」
とのこと。今では殆ど取り去られてしまったが、まだわずかにその跡が残っている場所もある。ともかく、その御土居の内側を「洛中」、外側を「洛外」と呼んでいたそうだ。京都ではよく使う言葉だが、その定義を今まで僕は知らなかった。
G君と僕が夢中になったのは、二百五十年前の地図と、明治初年の地図と、最新の地図を重ね合わせることのできるコンピューターソフトだった。僕達は、例えば今住んでいる場所が、百年前、二百五十年前、どんなだったかをそのソフトで出してみた。これはなかなか面白い作業。明治初期、僕の実家がある辺りは一面の田んぼ。そこに後年北大路通りが作られている。ところが大徳寺がある。北大路通が堀川の手前で大きく曲がっているのは、実は大徳寺を避けるためだったんだ。その辺りの事情が良く分かって面白い。
古地図によると、御土居は概ね鴨川と天神川に沿って築かれていたよう。しかし、重要な建物などがあると、それを避けて右や左に張り出している。G君は今、荒神口に住んでいるが、その近くにあるお寺のお陰で御土居は方向を変えたため、G君の家はかろうじて御土居の内側になっている。
「ほほ〜い、おいらは『洛中』に住んでる。」
G君はちょっと嬉しそうに言った。
鴨川に掛かる橋の一覧表。川沿いの遊歩道はかつて僕のジョギングコースだった。