エピローグ
朝五時半、鞍馬口通。これからウォーキングに出発。
四週間の日本滞在を終えた僕は、関空に向かうリムジンバスの中にいた。僕が金沢から帰ってから、京都の気温はほぼ、三十七度から三十八度で推移していた。母を始め、京都市民の皆さんには悪いが、この「圧迫感」さえ感じる、また、「生命に危険のある」暑さから逃れて、涼しい英国に帰れると思うと、正直ホッとする。昼過ぎに母に別れを告げ、叔母の運転する車で京都駅へ。そこからリムジンバスに乗る。飛行機は、夕方の六時である。今回も、香港経由でロンドンに戻る。
その日の明け方、僕は亡くなった上の娘の夢を見た。僕がバスに乗ると、左右にロングシートがあった。僕が左側の席に座ると、向かい側に娘が座っていた。彼女は、紫色のトレーナーを着ていた。僕は久しぶりに娘に会って、とても嬉しかった。
「会いたかった。」
二言三言話した後で、僕は席を立って、娘に触れようとした。僕の手が、娘に届く直前に・・・目が覚めた。目が覚めた後も、僕は久しぶりに娘に会えたことで、まだ嬉しかった。同時に、
「夢でしか会えない。」
そう思うと悲しくなった。時計を見ると五時過ぎ。僕は、起きて、また鴨川まで歩きに行った。
三年前、僕は心臓の手術を受けるために、三か月京都に滞在したことがある。それに比べると短いが、四週間というのは、何時もに比べて長い滞在であった。母が高齢なので、できるだけ母と一緒にいる時間を持ちたいと思う。母の家にいるときは、母と一日交代で夕飯を作っていた。僕が当番のときは、結構脂っこいものも作ったが、九十二歳の母は、旺盛な食欲で、ペロリと食いらげていた。
「これだけ食べられば、まだまだ大丈夫。」
僕は確信を深めた。
西陣病院で心臓のCT検査を受けたが、結果は良好であった。結果はおそろしいほど精密なグラフィックで示されていた。それを見ると、取り出された自分の心臓を、横から眺めているような気がした。
今回も、「従兄妹会」をやった。従妹のSちゃんと一緒に、従兄のFさんの家に行き、一緒に昼食をご馳走になった。ここのところ病気がちだったFさんだが、嬉しそうな顔も忘れられない。
この旅行記を書いたのは、英国に戻った翌週である。その週、日本はお盆休みであった。お盆と言えば、京都では「大文字の送り火」。神秘的な行事である。京都の友人が、
「送り火を見ると、思わず手を合わせたくなるような気分になる。」
と書いていた。もう四十年くらい、送り火を見ていない。来年、もし学校の夏休みに帰ることができれば、八月十六日まで京都にいて、大文字を見てから帰りたい。
<了>
甥の家族とも会った。後ろの水槽には魚が泳いでいて、それを料理してくれる。