去りゆく冬と待ちうける春
京都でも梅があちこちに咲いていた。
「どうして二月は二十八日しかなくて短いのか。」
「チコちゃんに叱られる」に出てきそうなテーマである。ひょっとしたら、もう取り上げられたかも知れない。
「二月は、寒いし、クリスマスも正月もないし、まだ花見もできないし、皆早く終わって欲しいから、昔の人が短くした。」
のかな?
「ボーっと生きてんじゃねえよ!」
とチコちゃんが火を噴きそうである。
しかし、僕はヨーロッパの二月が好きだ。確かにまだ寒い。しかし、春に向かって一直線に進んでいくのが分かる、希望に溢れた月なのである。さすがに歳を取ると、寒さが身に染みるようになってきた。可能ならば、もし、金、医療、家族、言葉等の問題が解決されれば、将来は、カナリア諸島とか、マデイラ島とか、冬でも暖かい所に住んでみたいと思うようになった。春が、暖かさが待ち遠しい。そして、二月は、春の到来を感じさせる、明るい月なのである。
僕の住んでいる英国の南部でも、緯度にすると、北海道の稚内より上である。したがって、夏は日中が長く、冬は短い。冬至の頃は九時ごろに明るくなり、三時ごろに暗くなり始める。その代わり、夏至の時は午後十時になっても、まだ外で新聞が読める明るさがある。この大きな差が、春と秋に調節されるのだ。二月になると、毎日二分ずつ日の出が早くなり、日没が遅くなる。これは劇的である。また、天候も、晩秋から初冬へかけての陰鬱な曇り空や霧から脱却し、キリっと寒いけれど、カラッと晴れた日が多くなる。
今回、二月の後半の二週間、日本にいた。日本の二月はまだ「冬」であった。日の出、日没の時間に、日本ではそれほど夏でも冬でも差がない。グングン日が長くなっているという感覚は乏しい。それと、日本はまだ寒い。と言うか、家の中が寒いのである。ドイツや英国の全館暖房、セントラルヒーティングに慣れている僕にとって、日本の家は寒い。例えリビングルームは暖かくても、トイレに行こうとして廊下に出とたん寒さが襲ってくる。これはなかなかこたえた。だから、僕は本来なら、四月か五月に日本を訪れたかったのである。特に今回は、一週間目に風邪を引き、二週間目は寒気がして、どこへ行っても寒く感じた。船岡温泉で温まっているときが、まさに「極楽」の時間だった。
しかし、日本でも、着実に春の気配は広がっていた。大宮の氷川神社の境内の紅梅は見ごろだった。自転車で通った、堀川一条戻り橋、清明神社の前に早咲きの桜が開いていた。人々が立ち止まって写真を撮っていた。皆、春を待ち焦がれているのである。僕も写真を撮った。
「春はもうそこまで 恋は今終わった
この長い冬が終わるまでに 何かをみつけて生きていこう」
その後、「チューリップ」の「サボテンの花」を歌いながら、僕は自転車を漕いだ。
清明神社にある、一条戻り橋のレプリカ。左側の人物が可愛い。