「偉大なる設計」

ドイツ語題:Der Grosse Entwurf

                                                     原題:The Grand Design

 

スティーブン・ホーキング &レナード・ムロディノフ

Steven Hawking & Leonard Mlodinow

2010年)

 

この本は、量子物理学とは何かという説明と、量子物理学を使っての宇宙の成り立ちを説明しようとしている。この本を読み始めたきっかけは、別に量子物理学そのものに興味を抱いたからではない。いつもドイツ語では小説ばかり読んでいたが、本当の勉強のためには、たまには「説明文」も読んだ方がよいと思ったからだ。量子物理学という、全く概念的で難解な学問を、ホーキング博士は、分かりやすく説明しようとしている。

 

<第一章>

 

人間はごく短い時間、宇宙の極めて小さな場所に存在するにすぎない。しかし、好奇心の強い人間は、宇宙はどのようにして成り立っているのかと、常に疑問を抱いていた。過去において、最初にその疑問に答えようとしたのは、哲学者たちであった。しかし、現在は、自然科学者、特に物理学者が、その問いに答えようとしている。伝統的な物理学では、物体は全て同じ軌道を持ち、同じストーリー、歴史を持っていると考えられてきた。しかし、それでは原子レベルの説明をすることができない。それに答えるのが量子物理学だ。

量子理論の説明者、リチャード・フェインマンによると、一つのシステムはひとつのストーリー、歴史だけを持っているのではなく、考えられるありとあらゆるストーリーを持っているという。宇宙はただひとつのものではないのだ。その考え方は、時には「常識外れ」のことも言われることもあるだろうが、原子の内部と、宇宙の起源を探るとき、常識に囚われる必要はない。

物理学は目に見えることの観察から、それにより得られた事象を説明するために始まった。しかし、現在の物理学は、眼に見えないもの、人間が観察できないものを、説明しようとしている。

人間は常に新しい、より良い理論やモデルを見つけようとしてきた。その過程には終わりがあるのだろうか。つまり、究極の理論というものに、人間は辿り着けるのだろうか。その究極の理論に近いものが「M理論」である。M理論は、全ての事象にあてはめることのできる理論だと言える。その考え方は世界地図に似ている。普通の地図では南極と北極の様子は正しく表示できない。何枚もの地域の地図を組み合わせ、互いに補正しつつ、人々は正しい地形を知ることができる。数々の地図を集めて地球の表面全体を表す、M理論とはそんなイメージである。M理論によると、我々の宇宙は、唯一無二のものではなく、「無」から作られた数々の宇宙のひとつであるという。また、宇宙の誕生は超自然的なものではなく、物理学的の法則にしたがって。作られたものであるという。

宇宙について本当に知るためには、「どのように」だけではなく「何故」という点に迫る必要がある。「何故『何か』があって『無』ではないのか」、「何故私たちは存在するのか」、「何故この理論によるシステムが存在し、何か別のものではないのか」、この本はこの三つの質問に答えようとするものである。

 

<第二章>

 

人類は、日食や月食に、神話的な理由をつけようとした。また、人類は、日食や月食が起こる法則性を発見し、それを予測できるようになった。しかし、人類は、火山の爆発、地震、嵐、疫病などの自然災害は依然として予測できない。それらの「予測できない事象」を説明するために、神や神話が作られ、それらの災いは、人間が神を怒らせたために起こると説明されるようになった。

二千六百年前、イオニア派のタレスが、自然は、不変の、解明可能な法則に基づいて動いていると主張した。

「一見複雑に見える自然界の現象も、元を質せば単純な法則により引き起こされている、そして、そこには神や神聖なものは必要ない。」

と彼は述べた。その後アリストテレスも自然界の事象を、理論的に説明しようとした。タレスを始め、自然界の法則を発見しようとしたイオニア派のアプローチは、驚くほど現代科学に似ている。しかし、数世紀の後、これらの理論は忘れ去られることになる。

ピタゴラスは「ピタゴラスの定理」を発見、弦の長さとその波長の原理も発見した。アルキメデスは、「テコの原理」、「浮力の原理」、「反射の原理」などを発見している。アナクシマンドロスは「最初の赤ん坊は育たない」という進化論に似た学説を唱え、エンペドクレスは、何もないと思われていた所に、実は「空気」という物体があることを証明した。デモクリトスは、事物はこれ以上分割できない単位「アトム」から成り立っていると述べた。そして、アトムは他の力に邪魔されない限り、真っ直ぐに進むという「慣性の法則」に似た考え方を示している。アリスタルコスは、日食、月食の原理を考え、その結果「太陽は地球よりうんと大きい、地球は宇宙の中心ではない、太陽も他の星々のひとつである。」

と述べた。二千年後のガリレイの先駆と言える考え方である。

しかし、全ての現象を、単純な法則に帰結させようとイオニア派の考え方では、そこに「人間の意思」が入らない。その点に反対する人たちがいたこともあり、定着はしなかった。しかも、古代ギリシア人の考えた法則は、実験的に証明できるものではなかった。実験、実証にはそれなりの手段が必要である。しかし、計算に便利なアラビア数字、正負数の概念、等号、正確な時計の登場までには、まだ何百年も待たねばならかったのだ。

また、イオニア派では、人間の行動に対する法則と、物理学的な法則、つまり哲学と自然科学が明確に区別されていなかった。当時は、世界が「どのように」動いているかよりも「何故」動いているかに興味が持たれたのである。それでも、アリストテレスの「観察に基づく物理学は」それから千年以上、正しい物として信じられた。例えば、「重い物は速く落ちる」と、人々は信じて疑わなかったわけである。その後、宇宙が自然法則によって動いていると言う考えを拒否する「キリスト教」の時代が長く続く。

このような中世のキリスト教的な世界観の殻を破った最初の人物がケプラーである。それに続いたのがガリレイで、多くの事象を、物理学的な方法で研究し、数々の「法則」を発見した。デカルトは、物理学的な現象は、三つの「法則」により支配されており、それは「精神」とは関係なく、いかなる場合にもあてはまると主張した。しかし、デカルトは、まだ「神」の概念を持ち続けていた。

「法則は神の意図を表している、神は世界を創った後、その後を法則に委ねた。」

とデカルトは言う。ニュートンは、万有引力の法則、その他三つの運動の法則を発見。それにより、太陽や天体の動きを説明することに成功した。その法則は、現代社会でも一般的に使われている。

では「自然の法則」とは何なのか。それは、

「観察して分かった規則性を説明し、未来にもその通りに起きることを予測する。」

ことであると言える。また、その規則性は、ある条件が満たされた環境において、常に起こりうる、妥当なものでなくてはならない。「自然の法則」に対して、以下の三つ質問が予想される。

@    それはどのような根源を持っているのか。

A    「奇跡」と呼べるような例外はあるのか。

B    ひとつの法則だけで全てを表すことができるのか。

第一の質問には「神」と答える人が多かった。第一の質問に対して「神」と答えると、第二の質問の答えは「イエス」となってしまう。デカルトやニュートンでさえも「例外は有り得る」と考えた。それに対してラプレは、天体の運行を説明するのに、学問的な決定論が必要なだけで、神は必要ないと主張した。

しかし、人間もまた「学問的な決定論」だけに支配されているのだろうか。

「人間には『自由な意思』があるではないか。」

と言う人がいる。デカルトは、人間は「肉体」と「精神」に別れており、肉体は自然の法則に支配されるが、精神はその埒外であると考えた。しかし、人間が

「自由な意思を使い自分で決定した。」

と思っていても、分子レベルでは、他の物体と同じ法則にしたがって動いているにすぎない。細胞の数が余りにも多く、複雑に関係しているため、人間の行動は機械的に予想できないだけなのだ。それを説明するためには、別のレベルの化学、心理学、経済学などが必要になってくる。第三の質問に対して、アリストテレスからアインシュタインに至るまで、多くの人が「法則はひとつだけ」と述べている。この本は「法則には例外ない」という前提で語られる。

「何故(Why)」ということを考えだすと、細かいことを観察することが疎かになり、誤った方向へ導かれていくことが多い。先ず、「どのように(How)」と考えることが大切である。次の章では、自然の法則にはどのようなものがあるか、数学的な法則はどんな現実に対しても適用できるが、そもそも「現実」とは何か、客観的な「現実」は存在するかということに注目してみたい。

 

<第三章>

 

 人間が普段目にしている「現実」は、どれほどの「真実」を伝えているのであろうか。プトレマイオスは、地球が中心で、太陽や惑星が地球を巡って動くモデルを作った。そのモデルがキリスト教会にも支持され、十四世紀まで信じられていたのである。コペルニクスはそれに対して地動説を唱えた。しかし、「観察」だけでは、プトレマイオスの説が正しいか、コペルニクスの説が正しいか、一概に言うことはできない。極端な話だが、例えば、地球外の何者かが、人類を「飼育」するために、虚構の現実を作り、我々はそこで生きているということはないのだろうか。人間は、自分の外から自分を覗き込むことはできない。従って、自分の見ている「現実」を疑うことは難しい。

 この本では、考え方や文化に依存する「現実」の概念はなく、「モデル」に依存する現実のみ存在することを前提にする。物理学的、数学的な理論は「モデル」であり、「モデル」と「観察」を結びつけるのが「法則」である。古典的な自然科学者は、誰が見ても同じ、普遍的な「現実」があると考えた。例えば、「シマウマの群れが駐車場を捜している」という光景、それは誰が見ても同じ「現実」であり、誰かが見ていても、見ていなくても「現実」であると考えられた。それを哲学では「現実主義」と言う。「シマウマの群れが駐車場を捜している」ということを、物理学的に証明するのは無理ということになる。それは本来、五次元の世界の影を、四次元の世界に映し出しているにすぎないかも知れないからである。量子物理学の世界では、観察者、測定者がいなければ、場所も、速度も特定することはできない。

 万人から認められた、「成功した」理論ならば、「現実」と考えてよいという意見もあるだろう。しかし、一度「成功した」と認められた理論が、他の理論に取って代わられることは、これまで何度もあった。 「観察」したことが「現実」であるとは限らない。反現実主義者である英国人のバークレーは、「自分が経験したもののみ現実である」と言い切った。しかしそれに反対する人たちもいた。「モデルに依存した現実主義」は、これらの論争に終止符を打つ。「モデルと観察が一致しておればそれでOK」ということになる。ひとつのモデルが、他のモデルより「より現実的である」ということはあり得ない。

「モデルに依存した現実主義」は日常生活でも使うことができる。我々の見ている現実が、丸い水槽の中にいる金魚の見る現実より、「より現実的である」ということは、果たして言えるのだろうか。知覚はそれを感じる観察者なくては成り立たない。「見る」という行為は、観察者が観察物から放たれた光を二次元として網膜に受け取り、それを脳の中で三次元に再構築しているに過ぎない。従って、「モデルに依存した現実主義」によると、観察者からすれば、金魚見る「現実」と、それを金魚鉢の外側から観察した「現実」の、どちらがより現実的であるかということは言えない。「モデルに依存する現実主義」は、少なくとも「存在」が何であるかを説明するには役立つ。「机がある」という「モデル」は、観察者の目から見て、部屋の中に机が見えることによって実証される。しかし、観察者が部屋を一歩出た途端、この「モデル」は消えてしまう。

 原子以下の世界で、「電子」のモデルは、これまで観察されている光の色々な現象を説明するのに有効なモデルである。電子は、1897年、トムソンにより発見された。しかし、彼は電子を見たわけでもないし、電子の存在を直接的な実験で証明したわけでもない。しかし、彼の「電子というモデル」は、数多くの事例に応用され、成功を収め、現在では全ての物理学者が、見ることのできない「電子」の存在を信じている。また、クウォークも同じである。クウォークは、原子核を成すものと言われているが、見ることもできなければ、分離することもできない。しかし、原子核がそれより小さな単位から成り立っていることは、原子の特徴を説明するのに都合のよい「モデル」であった。クウォークのモデルは数々の実験による観察と一致し、次第に反対意見を駆逐していった。

 世界が「ビッグバン」によって作られたというなら、それ以前はどうだったのかという質問がある。「時間はビッグバン以前にも存在した」という説を唱える人もいる。しかし、それが証明できるものでない限り、モデルという形はなさない。現在はビッグバン以前の状態を、誰も再現できないのであるから。

 良いモデルであることにはいくつかの条件がある。

@  優雅(エレガント)であること。

A  わざとらしさがないこと。

B  観察と一致し、それを説明していること。

C  そのモデルに対する将来の反論を預言できること。

の四点が挙げられる。

 まず、エレガントであるということ。アインシュタインは、

「理論は単純であるべき、しかし必要以上に単純である必要はない。」

と言っている。モデルはシンプルな公式で表されることが望ましい。複雑にしすぎると、「理論」として理解し難くなる。アリストテレスの理論は確かに、シンプルでエレガントであった。しかし、ガリレイにより、違う重さの球を同じ斜面を転がせるという簡単な実験で論破されてしまった。

 次に、わざとらしさがないこと。理論による予言が後で実験によって証明されればよい。しかし、実験結果が予言と違うこともある。その場合、理論を改めるのではなく、修正を加えて何とか理論を立ち直らせようとする。その結果、理論はどんどんエレガントさを失う。最終的に余りにも奇妙なものになれば、新しい理論、モデルが必要ということになる。ハッブルはそれまで「動かない物」と捉えられていた宇宙を膨張していると主張した。全ての銀河が我々の目から見ると遠ざかっていくことからである。彼の理論は最初反対に遭ったが、最終的には認められた。

 これまで宇宙を支配している法則を見つけようとする試みが、幾つものモデル生み出してきた。その都度、現実とは何か、基本的な物質の構成要素が何かという考えが変わった。その一つの例が「光」である。ニュートンは最初光を「粒子」であると考えた。しかし、「ニュートンの輪」と呼ばれる現象は、粒子論では説明できない。しかし、ふたつの光が出会ったとき、その「波」が互いに干渉してできると考えると説明がつく。十九世紀、殆どすべての物理学者が光は「波」であると考えるようになった。そして、アインシュタインが、光は「粒子」「波」の両方を併せ持つという理論を出すに至る。このように相対するモデルが並立することもある。

一つだけの数学的なモデルで、宇宙の全現象を説明できるわけではない。「M理論」のように、複数のモデルが組み合わさって、より大きいモデルが出来るという考えも認められている。次の章では、量子物理学とは何か、量子物理学の他の学問への応用、また宇宙はひとつのストーリーで出来ているのではないということを述べてみたい。

 

<第四章>

 

 壁にサッカーボールがひとつ通るようなスリットをふたつ開け、その後ろにネットを立ててサッカーボールを蹴る。普通のサッカーでは、ひとつのスリットを開けたときに比べると、二つのスリットを開けたときの壁を通過するボールの数は、倍になっている。しかし、分子レベルで同じことをやってみると、ひとつだけのスリットを開けた際通貨したボールの数の方が、ふたつのスリットを同時に開けたとき通過したボールの数の半数よりも多くなっている。1999年に行われたこの実験は、「フラーの実験」と呼ばれている。二つ目のスリットが、一つ目のスリットに何らかの形で干渉しているのである。このような現象は、日常のサッカーではあり得ず、ニュートンの物理学では説明できない。

 量子物理学の基礎は二十世紀の初頭に形作られた。量子物理学の世界では、上記のサッカーボールの例のように、日常の常識では説明できない、あるいは人間の「直観」とは違う、ニュートンの物理学では説明できないことが起こり得る。では、量子物理学は、古典的な物理学と両立するものなのだろうか。答えは「両立する」ということになる。この世の事物は、我々人間も含めて膨大な数の原子と分子からできている。したがって、全体としてはそれを構成している分子、原子と関係のない動きをすることはあり得る。言うならば、量子物理学はミクロの世界の動きを表し、ニュートン物理学はマクロの世界の動きを表していると言ってもよい。

 1927年、ダヴィソンとジャーマーの実験で、電子がニッケルクリスタルによって曲げられることが観察された。電子に関しての、量子物理学で重要な見地は、「波と粒子の二面性」である。ニュートンは光を粒子(後に「光子」と呼ばれる)であると言ったが、ヤングの実験は光が波であることを示した。(ヤングは二つの光源からの光が、水面に広がる波のように互いに干渉することを発見した。)

 次に重要な見地は、「焦点の定まらない関係」と呼ばれるが、ひとつひとつの粒子の位置や速度を測定しようとしても、それには限界があるということである。

「速度を正確に測定しようとすると位置が不正確になり、位置を正確に測定しようとすると速度が不正確になる。」

プランクは位置の不正確さと速度の不正確さを掛け合わせたものを「効果の数値化」と呼んでいる。これは言及するには極めて小さい値である。従って、物理学的なプロセスの結果を、量子物理学では完全に予測することはできない。というのも、現在の状況を、明確に定義できないからである。その結果、プロセスの結果は、幾つもの可能性を含んでいることになる。そこで、

「限られた条件の下で、最も起こり得るであろう過去と将来の可能性を予測する。」

という新しい決定論が導入された。一種の「確率」である。結果は、

「何度も実験を繰り返し、高い確率で期待していた結果が出た。」

ことによって確かめられる。

 「確率」で結果を確定するというのは、少し良い加減に聞こえるかも知れない。しかし、これは「ダーツの選手が、的の真ん中に投げる確率」とは本質的に違っている。ダーツの選手は、その時その時、微妙に違った投げ方をしているがゆえに、的中する確率が変化する。つまり、条件がいつも同じではない。しかし、量子力学の場合は、全く同じ条件下で実験を繰り返し、偶然にそれが起こる確率より高ければ、その結果が確かめられる。そして、その結果は直感や経験とは異なることも有り得る。

 先に述べたフェイマンの実験で、ふたつのスリットを通る分子の間に、何らかの干渉が起こっていることが示された。フェイマンはそれを粒子が出発点と到達点の間、ありとあらゆる方向に動き回っているからであると考えた。つまり、ひとつの分子が、閉じているスリットまで行く。壁を透過することはできない。その場合、分子はまた動き続け、別の開いているスリットまで行ったときに壁の向こう側に抜ける。ニュートンの考え方では、粒子は直線的に飛んでいたが、フェイマンは、分子は考えられる限りの全てのストーリーを辿って動き回ると考えた。

フェインマンは、分子の一回の振動での動きを「フェーズ」と名付けた。分子がA地点からB地点まで動く道筋はフェーズごとの矢印で表される。あちこち動き回っても、結果的にそれほど元の位置から動いていないこともあり得る。A地点からB地点へ動く可能性、確率は限りなくあるように見えるが、計算可能である。物体の移動は、個々の分子の移動の「合計値」に従っているにすぎない。

 では、フェインマンの理論を、粒子の集まり、ひいては宇宙にも適用できるのだろうか。物理学者は分子の動く道筋を「ストーリー」と呼ぶ。それが他のシステムでも観察できるのだろうか。フェインマンの行ったスリットの実験中に光を当ててやることにする。するとスリットを通過する分子の数に変化が現れる。A地点からB地点までの間に、二つのスリットの入った壁を作り、そこを通過した分子が、二つのスリットのどちらを通ったかを調べてみると、光を当てた時にはその値が変化する。これは光が何らかの形で、分子の動きに影響を与えていることを示す。

 またフェインマンの理論を使うと、「過去」の捉え方も大きく変わる。ニュートンの物理学によると、過去はひとつだけしかなく、現在の状況を良く観察すれば、過去に何が起こったか分かるとしている。しかし、フェインマンの理論では、分子はそこに至るまで、ありとあらゆる可能な道筋を辿っているのである。したがって、ありとあらゆる過去の歴史、ストーリーが存在することになる。どれだけ詳しく観察しても、それは推測に過ぎない。

 ウィラーは、「選択を遅らせた実験」ということを行った。分子が目的地に到着するまで、その道筋の判断を遅らせるのである。既に到着した分子に着目したこのような実験でも、同じような結果が出た。ウィラーは「選択を遅らせた実験」を宇宙レベルに適用しようとした。宇宙を観察する時にその光を観察するしかないが、その光が最初に発せられたのは、何百万年も前である。光が地球に届く前に、他の銀河がどのようにレンズの役割を果たしたのかを、この方法で観察しようとした。

 次章では、フェインマンの理論の宇宙規模への適用、宇宙がただ一つだけではない複数のストーリーから出来上がっていること、宇宙を支配する法則とその謎について述べる。

 

<第五章>

 

 宇宙を理解するために、幾つかの法則や、モデルが考えられている。最初に数学的に記述された法則が「引力」である。ニュートンは、

「全ての物体は、その重量に従って互いに引き合う。」

と述べ、それにより天体の動きを説明した。

次に発見された法則が「電磁力」である。磁石の同じ極は反発し、異なる極は引き合う。しかし、正負極が万遍なく混在する通常の物質では、長い間この力は気付かれなかった。十八世紀に入り、人々は「電力」と「磁力」に密接な関係があることに気付く。金属に電力をかけると、正負極が発生し、磁石と同じ性質を示す。また、磁石を動かすと電気が発生することなどからである。エルステッドは、ふたつをひっくるめて「電磁力」という概念を作った。ファラディーは磁界を発見し、磁界が電力を発生させることを発見した。またオーロラが強い磁界から出ていることを見抜き、電磁力と光の関係も予測した。永久磁石を、砂鉄を敷いたガラス板の上に置き、ガラス板を揺らすと、両極の間を結ぶ弧が現れる。これが磁界である。その磁界は真空中でも見られる。ファラディーは何も接触のない物同士が力を与え合うというのはおかしい、そこには「見えない管」が存在するはずと考え、その管を「力の場」と呼んだ。「力の場」は近代物理学の重要な概念になっている。

@  電気と磁力は互いに密接に関連している

A  また光とも何らかの関係を持つ

B  それらを伝える「場」が存在している

以上の三点に数十年間留まっていたが、それを破ったのはマックスウェルである。1860年代に、彼は電気も磁気も同じものであり、空間を波のように伝わり、その速度も計算した。その計算は「マックスウェルの公式」と呼ばれ、現在でも使われている。更にマックスウェルは光も電磁波の一種であることを発見した。ラジオの電波等より遥かに波長の短い電磁波が、我々の目に「可視光線」として捕らえらえていたのである。

 マックスウェルは光の速度を、秒速30万キロメートルとしたが、それは地球を基準にした、相対的なものである。地球も宇宙空間を動いているのである。ではどのようにして絶対的な光の速度を測定することができるのだろうか。マックスウェルは、宇宙の中心に「エーテル」という動かない中心があり、光速はそれを基準にしていると考えた。彼は地球が公転しているのであるから、その中心に対して「近づいている」場合と、「遠ざかっている」場合があると予測した。ある星から到達する光の速度を計れば、「近づいている」時には速くなり、「遠ざかっている」時は遅くなると予測したのである。マイケルソンとモレーが1887年にそれを測定した。しかし、光の速度は、地球が公転中、どの場所にいても同じであった。

「エーテル」の存在、絶対的な光の速度という考え方を最終的に否定したのはアインシュタインである。1905年、彼は

「光の速度は、動いている同じものを観察している全ての観察者にとって同じである。」

と主張した。例えば、飛んでいる飛行機の後ろの座席から前の座席に向かって光を発射したとする。それを飛行機に乗っている人と、地上にいる人の両方が観察した。両者が光の速度を測定した場合、それは同じ値になるとアインシュタインは言う。

「必要とされる時間は、それを測定する観察者に依存する。」

つまり、時間も絶対的なものではなく、それぞれが別の時間を持っている。この「特殊相対性理論」は、大きな波紋を巻き起こした。つまり、

「同じ事象にかかる時間を、ふたりの観察者が時計で計ったら、動いている観察者の時計の方がゆっくりと進む。」

ということになるのである。このことは後年、正確な時計を、地球の自転と同じ方向に飛ぶ飛行機と、逆向きに向かう飛行機に乗せ、その時計の示す時刻を後で比較することによって確かめられた。地球の自転と同じ向きに進む、つまり速度の速い飛行機の時計は、ゆっくりと進んだのである。

 アインシュタインは、時間が「縦、横、高さ」の三次元の空間に対して、独立した要素ではなく、同じように第四の次元として扱ってよいのではないかと考えるようになった。時間は「縦、横、高さ」と同じレベルの次元であり、空間は実は「空時間」であるというのが彼の理論である。これが「一般相対性理論」である。

 彼は「空時間」も地球の表面が平らでないように「歪んでいる」とする。地球の表面は、一見「縦と横」の二次元の世界のように見受けられるが、実は丸みがある。そこではユークリッド幾何学は通用しない。例えば、同じ緯度にあるニューヨークからマドリッドに向かう飛行機は、最短距離である大圏航路を取るために最初地図上では北東に向かう。

 ニュートンの運動の法則によると、物体は他の引力の力に影響されない限りは真っ直ぐに動く。それをアインシュタインは、物体は「ジオデータ」によって動くとした。ジオデータは二次元の世界では直線、三次元の世界では大圏航路、そして四次元の世界では空間が歪んでいるからこそ引力のように曲がって動く力が生じる。「時空間」は曲がっているので、引力が働いているように見えるのである。もし、引力がなければ、アインシュタインの特殊相対性理論と一般相対性理論は同じ動きをするだろう。また、太陽系では引力が弱いので、ほぼ全ての物がニュートンの運動の法則によって動く。一般相対性理論は、その後数々のテストにより実証され、ブラックホール等の、宇宙の他のモデルを予測した。また、GPSでは一般相対性理論なしには、正しい位置を特定できない。

 しかし、このアインシュタインの理論でさえも、現在では「古典的」物理学に属している。それは、ひとつのストーリー、歴史だけを持つ宇宙を前提にしているためである。それは、原子、分子レベルの観察とは一致しない。量子物理学では、「考えられる限り全て」のストーリーを考慮しなければならない。我々が原子、分子レベルの動きを理解するためには、マックスウェルの電磁理論を使わねばならない。また、宇宙がビッグバンの際、本当に小さなボリュームから始まったことを説明するには、一般的相対性理論を使わねばならない。しかし、自然の法則を発見するために、一部では量子物理学を、一部では古典的物理学を使うということはできない。量子理論を全てに用いなければならない。

 自然の力は、以下の四つグループに分けることができると考えられる。

@                 引力

A                 電磁力

B                 弱い核エネルギー

C                 強い核エネルギー

量子理論が適用された最初のものはAの電磁力である。古典物理学では、電磁力は「場」によって伝達され、「場」はボソンと呼ばれる「力」の粒子から成り立っており、それが物質の間を飛び回っていると考えられていた。電子、クウォーク等の物質を作るのはフェミオンという「物質」の粒子で、光子に関しては「量子電子ダイナミック」(QED)がフェインマンにより提唱された。 

 フェインマンは、力の粒子が物質の粒子にぶつかり、その性質に影響を与えると考えた。粒子の交換理論に、ある条件の下、全てのストーリーをカバーすると計算は完了する。フェインマンは全ての予期されるストーリーを表記するグラフィックを作った。このグラフィックは近代物理学の重要なツールとなっている。このダイアグラムはQEDによる確率を計算することに大きな助けとなった。しかし、そこにほぼ無限のダイアグラムが可能という弱点もあった。その改善のひとつが「ノミニールング」、「再基準化」である。数学的な規則により深く考慮した上で、理論的には無限と考えられる可能性の数を減らすという作業である。この「再基準化」の成功により、他の三つの力にも、量子物理論を適用しようという機運が高まった。1968年、弱い核エネルギーに、量子理論が持ち出されたが、再基準化は不可能であった。サラムとワインバーグが弱い核エネルギーと、電磁力を結びつけた。その理論は再基準化が可能で、「Wプラス」、「Wマイナス」、「Zゼロ」の三つの新しい粒子が予言され、それは1983年に確認された。

 強い核エネルギーは「量子クロモダイナミック」理論によって説明された。それは、陽子と中性子は「クウォーク」という粒子から出来ている。クウォークは便宜上「緑」、「青」、「赤」と色付けされた三種類があり、それに反発し合う「反緑」、「反青」、「反赤」の粒子もある。クウォークは強い力で引き合っており、分離が不可能である。この組み合わせが安定している「バリオン」が陽子、中性子など宇宙を構成している通常の粒子となる。

 1970年代、弱い核エネルギーと、電磁力を結びつけ、強い核エネルギーもカバーした「統一理論」(GUT)が考え出された。しかし、その理論は、陽子が十の三十二乗年で崩壊することを前提としていた。しかし、宇宙が出来てからまだ十の十乗年しか経っていない。その場合、十の三十二乗の陽子に注目すれば、理論的に言うとその中の一個が毎年崩壊するはずである。そして、三十二乗の陽子というのは千立米ほどの水で、それほど多くの量ではない。日本の神岡の地中深く、宇宙からの物質を遮った上で水が溜められ、陽子の崩壊が観察された。その結果陽子の崩壊の周期は十の三十四乗と推定された。これはGUTに反している。

 GUTが観察と一致しなかったので、その後「スタンダードモデル」と呼ばれる弱い電磁力とCEDを結びつけた理論が提唱された。しかし、それは引力との関連を説明できず、広まらなかった。引力と、他の力を一緒の理論で説明することは、それ以外の力同士の慣例を説明するより、格段難しい。それは、「スピードと位置の」の特定に非確実さが残ったように、「場の値」と「変化の度合い」の関係が、正確に特定できなかったからである。それは「場の値」、「変化の度合い」の両者がゼロであるという、一種の「真空」状態の場所が地上にはないことによる。しかし、仮に「真空」の状態が作り出せても、その中には、「揺らぎ」、「変動」が存在する。それは、二つの粒子が現れ、ぶつかり。互いに殺し合うというものである。それらは仮想粒子と呼ばれる。その仮想粒子は、エネルギーを持っているが、それが測定されない以上、仮想粒子は「無限に」存在し、「無限の」エネルギーを持っていることになる。そして、そこにはレノミールングが効かない。

 レノミールングを使わないで、無限地獄から抜け出すために、1976年に「スーパー引力」理論が提唱された。何故「スーパー」なのかと言うと、「スーパーシンメトリー」という概念に依っているからである。あるシステムが回転や反射によってその特徴が変わらない時、そのシステムが「シンメトリー」であると言う。ちょうど、ドーナツを裏返しても、姿が変わらないように。「スーパーシンメトリー」理論は、力の粒子と、物質の粒子は、コインの両側のようなもので、お互いに相方が存在するという。そしてその組み合わせによって、お互いの「無限性」を打ち消すことができるという。これを証明するには、粒子が常にペアになっているかを確かめればよい。しかし、これまでの観察、実験では、証明されていない。原子加速器により、理論が実証されることが期待されている。

 「スーパー引力」の理論が発表される前、「スーパーシンメトリー」という概念は「ストリング理論」のために既に使われていた。「ストリング理論」では、粒子は幅と厚みのない紐のようなものであるとし、最高十次元までの存在を予測した。では、現在四次元の世界に住んでいると思っている我々は、何故、他の次元の存在に気付かないのであろうか。それは、その次元が極めて小さいからであると説明される。ストローの表面は二次元である。しかし、そのストローの直径を何百万分の一ミリというように極めて細くすると、一次元のように感じてしまう。そのように、次元が余りにも小さいため、見過ごされているのだという。他の次元が我々の世界で非常に小さいとそれは見つからない。「ストリング理論」の弱点は、他の次元の存在を説明するために、少なくとも五つの理論が必要になり、そこには何百万という可能性が残されていることである。「ストリング理論」に対して、「四次元の世界を別の角度から捉えようとしているにすぎない」という意見もある。1994年に「二重性」という理論に気付かれ始めたが、それも「スーパー引力」理論と似ており、同じ現象を別の角度からアプローチしているに過ぎないという意見もある。

 しかし、このような理論間の矛盾は、「M理論」を使うことによって解決できる。全ての事象を、只一つの理論により説明するのは不可能である。どの理論も「モデル」に依存し、モデルと観察を照らし合わせれば、それは「現実」であると言える。言い換えれば、各々の理論が、それぞれの部分を説明していると言える。M理論によると、十一の次元が予言されている。では、隠れている残りに次元が捜しだされる可能性はあるのだろうか。M理論では、理論を数学的に計算することで、隠されている次元の存在を絞り込めると考えられている。電子の電荷と電子間の交換効果の固定値から、他の次元の存在を見つける可能性を示唆している。

 M理論では、計十一のどの次元が使用されるかにより、十の五百乗にも上る異なった宇宙の存在を予言している。その場合、その数だけの自然の法則が存在することになる。ビッグバンの後、百万分の一秒に一回ずつ、別のストーリーが生まれるとすれば、それだけの数の異なった次元を持つ宇宙が存在していてもおかしくはない。ニュートンは、地上や宇宙の物質の動きを一つの数式で表した。その結果、科学者たちは、どれにでも当てはまる、ひとつだけの「究極の」理論があるのではないかと期待した。しかし、その後の研究で、十の五百乗の宇宙があり、我々の宇宙はその一つにすぎず、それぞれの宇宙に別の法則があるということが知られるに至った。ひとつだけの宇宙という考えを諦める時が来たと言える。では、どうしたらその「自然の法則」に辿り着けるのか、そして、我々の宇宙の他に存在する可能性のある宇宙はどのようなものか、次章で述べたいと思う。

 

<第六章>

 

 世界各国にはそれぞれ宇宙創造の神話がある。それらは「どうして宇宙は存在するのか」、「どうしてこの宇宙であり、他の宇宙でないのか」を説明しようとしている。本書の目的も、まさにこの二点を説明することにある。

 ハッブルは、他の銀河系から送られてくる光のスペクトルを解析し、遠くの銀河ほど、速いスピードで、我々から離れて行っていることを発見、1929年に「宇宙は膨張している」ことを発表した。そして、その膨張の度合いを逆に辿っていくと、百三十七億年前に、宇宙は猛烈に熱くて密度の濃い状態から始まったと予想された。それが、後年「ビッグバン」と名付けられることになる。この宇宙の膨張は、1931年、エディントンの比喩によって分かりやすく説明される。風船に、幾つかの点を描き、その風船を膨らませたらどうなるか。点と点の距離は大きくなり、遠くにある点ほど、遠ざかるスピードが速い。また同じペースで膨らませていても、離れていく速度は、どんどん大きくなる。しかし、実際は、宇宙だけではなく、全ての物が膨張しているのである。測定器具までが膨張しているので、我々はそれに気が付かない。

 アインシュタインもこの膨張を受け入れている。フリードマンは、同じ場所で同じ方角を観測しても、何も変わらないと主張した。つまり、宇宙は同じ形を保ったまま膨張を続けていることになる。フリードマンは膨張がゼロから始まり、膨張が続くが、いずれは引力の働きでその膨張は止まり、収縮に転じると予言した。そして、そのゼロの状態を「創造の瞬間」とした。ホイルは1949年、最初に「ビッグバン」という言葉を使う。1965年、ビッグバンの存在を証明するものが見つかった。それは偶然発見された宇宙からの超短波で、「CMB、宇宙超短波背景照射」と名付けられた。それらは、宇宙が、非常に熱く、濃いときに作られたものと推理された。

 ビッグバン直後の状態は、どの恒星の内部よりも高い温度で、原子炉の内部のような状態であった。計算では、それが冷えた時、過半数の水素と、二十四パーセントのヘリウムと、わずかな量のリチウムが造られることになる。そして、その割合は、自然界におけるこれらの元素の割合と一致している。しかし、ビッグバンの理論で、全てが解決されたと考えるのは尚早である。ビッグバンには一般的相対性理論では、説明しきれない部分が多々あった。

 1980年に、「インフレーション理論」が登場する。ビッグバンの後、宇宙がとてつもないスピードで膨張したというものである。そのスピードは、コイン一枚の容積が、次の瞬間には銀河系のサイズになるという、とてつもないものであった。この膨張のスピードは、「光より速い物はない」という、一般的相対性理論に反している。この理論が、宇宙の起源を突き止めるために、一般的相対性から脱却し、量子物理学に目を向けさせるきっかけとなった。しかし、量子力学では、引力がまだ完全に解明されてはいない。今後の研究を待つ部分も多い。

 「インフレーション」は均一に起こったわけではない。その不均一さは、CMBのわずかな揺れによって、1992年に発見された。ともかく、ひとつの物体が、周囲よりも温度が高い時、周囲に熱を放出して、最後は周囲と同じ温度に戻る。しかし、そのことを、遠く離れた天体の間で、光を通じてやっていたのでは、とても間に合わない。光速よりはるかに速いインフレーションがそれを可能にする。つまり、インフレーションはビッグバンの最初に瞬間を説明するものである。インフレーションは、それまで一般的相対性理論に基づいていたそれまでのビッグバンの考えを塗り替え、宇宙が極めて特殊な状態で始まったことを示した。

 「インフレーション」は、一般的相対性理論では説明できない。では、どのような理論がそれに代わって、宇宙の起源を説明するのであろうか。先にも述べたが、量子理論は余り大きなものには適用できない。しかし、宇宙の歴史を遡れば、極めて小さい世界に行き着く。そこで、量子理論を使うことができるのではないだろうか。引力を説明する量子理論はまだないが、宇宙の起源の探求は、量子理論に傾いている。おそらく、量子理論と一般的相対性理論を結びつける必要があるだろう。

 まず、我々の宇宙では、引力により、時間や空間が歪んでいるという認識が必要である。例えば、ビリヤードの台は平たく、その上を球は真っ直ぐ進む。しかし、ビリヤード台の表面が歪んでいたら、そうなるであろうか。当然球は曲がって進む。つまり、二次元であるはずのビリヤード台の表面が、外に向かって、つまり三次元に向かって曲がっているからである。我々の四次元の世界でも、同じことが起こり得る。つまり、未知の次元に対して、空間が曲がっているのである。しかし、四次元の世界に生きている我々にはそれを見ることが難しい。もし、正確に歩くアリに、ビリヤード台状に書かれた円の上を歩かせたら、平面の曲りにより円周と直系の関係が円周率にならないことがあるかもしれない。同じように、空間上に二点の距離を測ると、予想以上に伸びていることがある。また時間にも同じことが言える。全てに歪みが観測されているのである。

 このことを踏まえて、宇宙の起源を考えてみよう、まず、時間と空間は分けて考えないことにする。それは、歪みが時間と空間に混ざって起こること、また、初期の時間と空間を理解するのに、二つを分けないで考えることが重要であるからだ。

「時間の始まりを見つける」のは「海の果てを見つける」ということに似ている。「海は溢れないか」という疑問を抱いた人がいたとする。それを確かめるために、気球等を使って、極めて高い場所に上がればよい。その結果、地球上は平面ではなく、歪んだ球面になっており。海には果てがなく、海は溢れないと言うことが分かる。時間は、鉄道模型の線路のようなものだ。アインシュタインが時間と空間を結びつけた後も、時間に「始め」があると考える人は多かった。しかし、量子理論では、時間は空間の延長と理解されている。宇宙が小さく、一般的相対性理論も量子理論も通用しなかった頃、四つの空間次元があり、時間もその中のひとつだった。時間に始まりと終わりがあるかという質問は、海の果てを見つけられるかという質問と同質に捉えられる。宇宙の始まりは、ちょうど南極点から北に向かって移動を始めるようなものである。緯度が時間に当たる。南極点よりしたに緯度はあるか。ない。このように、時間の始まる前に何があったかという質問は無意味で、形をなさない。

 宇宙の始まりを見つけることは難しかったがゆえに、アリストテレスは、宙は「常にあるもの」と考えた。ある者は、宇宙は神によって始められたとした。しかし、時間が空間のように振る舞うという考え方は、その答えの発見に別の方角を示し、神ではなく、科学者がそれに答えることになると。

 もし、宇宙の起源が量子論の結果ならば、フェインマンのいう「全てのストーリーの合計」で説明できるはずである。しかし、今回は、観察者が観察対象のなかにドップリ浸かっているので、話が複雑になってくる。粒子がA地点から、B地点へ動くとき、B地点へ着くまでのありとあらゆる経路が考慮される。そして、その結果は確率で表される。これを宇宙に応用すると、現在の宇宙は、ひとつのストーリーからだけで、できたのではないということになる。つまり、宇宙はあらゆる可能性から生まれたことになる。そして、そのことは「他の」宇宙の存在を予言することになる。それらの中には少しは「我々の」宇宙に似たものもあるだろう。しかし、大部分は、全く違った自然法則で動く、似ても似つかないものであろう。エディントンは、宇宙を風船に例えたが、それを沸騰した湯の中に生まれる泡に例えると、もっと良く分かる。泡は次々と現れ消えていく。その中に一部、目に見えるくらいの大きさに膨れ上がるものもある。おそらくその大き目の泡の一つこそが、星や生物を含む我々宇宙であろう。

 インフレーションは全く同じ割合で行われなかった。確率的には同じ割合で行われる可能性が高いが、結果的にはそうはならなった。それはCMBの示す不規則性によって分かる。しかし、その不規則性が引力による物質の集散を促し、宇宙の中の物体、星々を作っていった。この温度の違いは、宇宙全体の熱源の配置図をみると明らかになる。(熱い部分、冷たい部分がある。)

 「あることが原因で、あるストーリーをたどり、宇宙は今の形になった」という考え方、宇宙は唯一つのストーリーを持っているという考え方が「ボトムアップ(下から上へ)手法である。」それとは反対に、量子理論、フェインマンのモデルを使うと、「今のような形になるには、どのようなことが起こり得たか」、つまり今日に至る可能性のある全てのストーリーを考慮しなくてはならなくなる。これを「トップアップ(上から下へ)手法」と呼ぶ。そのばあい、現在のような状態に至るにはストーリーは幾つもある。つまり、歴史が我々を作るのではなく、観察により我々が歴史を作るのである。これまで、多くの物理学者が宇宙の全ての事象を一発で説明できる理論があることを期待してきた。しかし、ストーリーが複数ある場合、別のストーリーには別の理論をあてはめることも必要となるかも知れない。

例えば、M理論では、宇宙は十の空間次元と、一つの時間次元からできていることになっている。しかし、解明されている空間次元は三つだけで、残りの七つは残されたままである。そして、残りの七つには、我々の宇宙とは違う自然法則がなりたと予想される。したがって、その自然法則を説明する独自の理論が必要になってくる。ではどうして、三つだけが顕著に現れて、残りの七つの次元は、何故我々の宇宙では見つからない、隠されているのだろうか。他が三つの次元に道を譲って降りたのか、最初は十次元とも皆小さかったが、三つだけが伸長したのか、その原因は分かっていない。

何故三つの空間次元のみが顕著なのかを明かす方法論はない。しかし、三つという重要な次元の数が、物理学的な原則からできたのではないといくことは言える。量子力学をもってしも、次元の数がゼロから十の間であるということは証明できない。フェインマンの確率を使っても、明らかにはできていない。全世界の人口で一番割合が多いのは中国人だが、ローマ法王が中国人である確率が低いことを、知っている。

我々は隠されている七つの次元とどう向き合っていったらよいのか。隠されている次元にも、電子の負荷や交換効果はある。M理論を持ち出さないと、これまでの自然法則の範囲内で話が続けられる。しかし、一旦M理論を持ち出してしまうと、十の五百乗の宇宙の可能性と、それぞれに当てはまる理論を考え出さねばならない。それを考えると、「ボトムアップ手法」では、他の次元には言及する必要はないと思われる。「トップダウン手法」だと、複数の宇宙が存在する可能性が出てきてしまい、それらの宇宙は、全く別の法則に支配されていることになる。また、どのような宇宙も非均一なものなのである。

数百年前まで、地球が宇宙の中心であると考えられていた。今では、何億という星が我々の銀河系にあり、恒星は高い確率で惑星を持っており、宇宙には何億という同じような銀河系があると考えられている。しかし、ここに書かれている理論が、究極のものであるとは思わないでほしい。我々は科学の歴史において、重要な岐路に立っている。多くの理論を吟味し、アクセプトできるものを、新たに定着させていかなくてはならない。我々の宇宙の中で発見された基本的な数や法則が、ロジックや物理学的な理論として受け入れられ、それがパラメーター、つまり変数を変えることによって、他の宇宙にも当てはまるというのが理想であるが、まだそこには至っていない。

宇宙の中には大きな「地形」があるであろう。次章では、宇宙そのものではなく、その中に存在する物に注目してみようと思う。

 

<第七章>

 

宇宙には太陽が二つあるシステムがある。恒星系の約半分が、そのような形態である。それでも惑星は定められた軌道を動いている。しかし、そのような軌道を通る惑星は、暑すぎたり、寒すぎたり、極端な気候の変化を持たざるを得ない。また、ひとつの恒星を回る惑星でも、楕円軌道を描くことがある。その楕円が極端になると、その惑星は気候の激しい変化に悩むことになる。幸いにして地球の軌道はほぼ真円で、地球の気候の変化は、太陽からの距離ではなく、地軸が公転面に対して傾いていることによる。また、惑星にとって、恒星の大きさと、恒星からの距離も、重要である。太陽がもし二十パーセント大きいか小さければ、地球は金星や火星の気候になっていた。高度な生物が誕生するためには、水が液体の状態で存在することが、不可欠である。それが可能な地域は「ゴルディーロック・ゾーン」と呼ばれ、極めて狭い範囲でしかない。その意味でも、地球は極めて幸運な惑星であると言える。ニュートンは、地球が太陽から見て現在の位置にあることを「神の意思」であるとさえ言っている。

多くの幸運が重なって、現在の地球とその生命が造られたと思われてきたが、1992年に最初の他の太陽系の惑星が発見され、その後、数多くの惑星の存在が確認され、その中には生命の発生する条件のあるものも確率的に存在すると考えられるようになった。それで、地球が「誰か」によって、注意深く造られたと言う説は、一度否定された。

今この地球に我々生物が住んでいるのであるから、もちろん、そこにはそれに必要な全ての条件が備わっているはずである。人類学的な原則は、「人間がいかに自分たちに都合の良い環境にいるか」を説明している。その原則は「選択の原則」であるとも言える。何故なら可能な限りの全ての環境を観察した際、今自分たちが生きている世界がいかに限定的なものであるか、つまり自分たちがいかに選択された存在であるか、人類学は述べている。そこには、哲学と通じるものがある。

宇宙の歴史を考えてみる。最初は水素、ヘリウム、少量のリチウム等の軽い原子しかなかったが、恒星の内部でそれらが燃えることにより炭素ができ、それが恒星の爆発でばらまかれる。その炭素の年代を計ることにより、1901年にディッケは、宇宙の生成は約百億年前であると予想した。その後、ビッグバンの理論により、それは百三十七億年まであると修正された。

人類学的な原則では、固定値ではなく、出来るだけ外からのパラメーターによって、物事を説明しようとする。本来は特定の値に制限はされていないのだが、そこに入る値は、実際の値から余り離れていないものばかりである。例えば、生命の発生には、惑星の楕円係数が、0から0.5と予想する。そして実際に入るのは地球の0.00000000001という値である。その結果、我々はちょうど一番良い時に、一番良い場所に生きていることになる。しかし、人間によって都合の良い物だけが自然の法則ではないはずである。

人類学的な原則は、物理学者には重きを置かれていない。それで「より強い」人類学的な原則が新たに作られた。そこでは人類の住む環境だけでなく、宇宙全体に当てはまる自然法則を考慮して述べるということになる。しかし、これをも受け入れない物理学者は多い。

先ほども述べたが、初期の宇宙では、水素、ヘリウム、少量のリチウムしか存在しなかった。これが恒星の内部の「溶鉱炉」で燃えることにより、炭素等の重くて数億年間安定した物質が作られ、それが恒星の爆発により宇宙空間にばらまかれた。それが集まり、惑星ができ、その上に生命が誕生したのである。我々がここまで来る過程には、基本的な力が、正確に働かなくてはならなかった。

1950年代にホイルも、この「幸運な偶然」について考えた。彼は一個の陽子と一個の中性子からなる、最も簡単な構造を持つ水素から全ての元素が発生したとした。ヘリウムやリチウムは比較的簡単な構造を持つ。しかし、生命の誕生には炭素が不可欠となる。それは炭素が他の元素と極めて結びつきやすいからである。水素が核融合を起こすとヘリウムになる。炭素は二つのヘリウム元素とベリリウムが核融合を起こしてできる。それは、「三アルファ反応」と呼ばれる。この反応は恒星の中の極めて高温、高圧化で起きる。そして、恒星爆発により炭素が外へばらまかれるのである。ホイルがこの説を持ち出した当時は、核物理学がまだ発展途上で、核融合ということは新しい概念であった。しかし、ホイルはこの方法以外に、炭素の発生の説明はつかないとしている。しかし、当時はまだ、この「三アルファ反応」が、極めて幸運な偶然の上に起こり得たということに気付いた者はいなかった。もし、自然界の法則がほんの僅かブレていたら、この反応は起こり得なかったのである。

他にも、小さな要素がほんの少し変化しただけで、宇宙が生命に適さないものになっていたという例はある。惑星に生命が生じるには、何億年も変わらない安定した天体の運行が不可欠である。そして、そのための円軌道は、三次元の世界で最も安定しているのだ。これも、一連の「幸運な偶然」が重ならなければ、生命は誕生していなかったというひとつの点になるだろう。

アインシュタインは、一般的相対性理論の中で、宇宙は変化しないものと考え、「宇宙の固定値」という理論を唱えた。「引力」だけが作用すると、宇宙は最後ひとつにまとまってしまう。それを避けるために「反引力」という反発する力が「宇宙の固定値」として時空間に働いていると、彼は最初考えた。しかし、彼はそれが誤りであると認める。ところが、1998年、大規模な「スーパーノヴァ」の観測の際、宇宙に一種の「反発力」が働いていることが発見された。しかし、それは微力である。それが大きすぎると、宇宙はバラバラになり存在しなくなってしまう。ここでも、宇宙が、生物の誕生にとって有利になるような、引力と反発力が微妙なバランスの上に成り立っていることが分かる。

このように自然法則は、我々の存在に適合し、それを危うくするような変化もない。何故そうなのか。多くの人はそこに「神」を持ち出している。神による周到な計画の上で宇宙は作られたというのだ。アリストテレスでさえも、

「自然は前もって定められた計画に則って動いている」

と言った。

コペルニクスにより、地球が宇宙の中心でないことが分かると、地球も数多く存在する惑星の単なるひとつであると考えられた。しかし、その後、天文学や物理学により、地球や生命の存在が、余りにも「幸運な偶然」の上に成り立っていると考えられると、そこに再び「神」の介在を信じる人が出てきた。彼らは、宇宙における余りにも「精緻な調節」を神の意思と計画の結果であると考えた。ケプラーやニュートンも、自然の法則余りにも精緻に出来ているため、それが「神」という数学者によって作られたと考えた。

 それに対するこの本の答えは、「我々の宇宙は数多くある宇宙のひとつにすぎない」ということである。太陽系が数多くある恒星系のひとつに過ぎないように、我々の住む宇宙も数ある宇宙のひとつにすぎない。そして、我々はたまたま「生命の発生に適した自然法則を持つ宇宙」に存在しているにすぎないのである。

 ニュートン以来、多くの科学者が、「全てを網羅する唯一の理論」を見つけようとしてきた。マックスウェルとアインシュタインは電力、磁力、光を一つの理論で説明した。七十年代、スタンダード理論が弱い核エネルギーと電磁力を結びつけようとした。そして、今、ストリング理論とM理論が引力をも取り込もうとしている。

 

<第八章>

 

 この本ではまず、天体の運行が、神や悪魔の気まぐれではなく、きちんとした法則によって行われていることを示した。天体の動きは複雑で、最初はなかなかその法則を解明することがなかなか出来なかった。現在ではかなりの部分が解明され、その動きを予測することができるようになった。そして、その自然法則は例外なく全ての物体に対して適用される。

 次にこの本では、「科学的な決定論」について述べた。そして、ニュートンの運動の法則、万有引力の法則、アインシュタインの一般的相対性理論など、宇宙の本質に迫ろうとする理論について述べた。しかし、自然の法則は「HOW」は説明するが、「WHY」を説明してはいない。そして、その「WHY」を説明するために、多くの人が「神」を持ち出した。しかし、そうなると、「誰が神を作ったのか、何故神が存在するのか」という次の「WHY」が生まれる。その「WHY」に対する答えを出すのがこの本の目的である。

 この本ではまた、「モデルに依存した現実主義」について述べた。我々の脳は、知覚器官で捕らえた信号を基に外界を認識し、脳の中に、家、木、他人、電流、原子、分子等の「精神的なコンセプト」、「モデル」を作る。全てが「モデル」として捉えられ、それ以外は何もない。良く作られたモデルが、現実であり、リアリティーであるのだ。

 「現実とは何か」という問いに答える良い例が、1970年、コンウェイによって作られた「生命のゲーム」である。このゲームは二次元の世界を支配する法則のシミュレーションである。コンウェイの作った世界では、チェスの板のように並んだ正方形が無限に広がっている。各々の正方形は「生きている」、「死んでいる」という二つの状態によって色分けされる。時間は連続して流れるのではなく、一歩一歩段階的に進んでいく。「生きている」、「死んでいる」という状態は、隣接した正方形の状態によって決定される。

@         生きている正方形は、二から三の隣接した正方形があれば生き残る。(生存)

A         死んでいる正方形は、三つ以上の生きている正方形に隣接していれば生まれる。(誕生) 

B         それ以外の場合は変わらない。(継続)

このゲームを続けると、最初の状態によって、「同じ現象が繰り返し現れるパターン」、「途中まで変化するが、その後止まってしまうパターン」、「移動、分裂をするパターン」などの幾つかのパターンが生じる。

上記の三つの単純なルールを「物理学」、そしてその結果現れるパターン、結果を「化学」として捉えることができよう。下層では単に「生きている」、「死んでいる」という二通りの決定しかないのだが、上層では「分裂」、「移動」、「繰り返し」など一見複雑な動きが現れる。そして、一般的に、上のレベルのみを観察して、法則が作られがちなのである。しかし、それは誤りである。下の単純なレベルの法則こそ解明されなくてはならない。宇宙も一見複雑な動きをしているように見えるが、根底は単純な規則で動いていることが多いのである。

コンウェイの「宇宙」は、初期条件さえ与えればコンピューターでシミュレーションすることができる。また、「途中まで変化するが、その後止まってしまうパターン」も、他のパターンが近づいてくればまた動き出す。更に、同じものを繰り返し作り出す、「再生産」、「生殖」のシミュレーションをすることも出来る。

人間は、外からの刺激に反応し、選択的な行動を取ることができる。それらは普通「自我」、「自由意志」と呼ばれている。では、シミュレーションの中の物体も、自由意志を持つことが出来るのだろうか。例えば、ロボットや人間が宇宙人に遭ったときの行動を予想できるのか。ロボットならば、プログラムしておくことができる。人間の場合は難しい。数個の原子でも、それらが組み合わさったときの動きを予測することが難しいのに、人間は何百億という原子から成り立っているのである。そんな原子の動きは予測できない。それが「自由意志」と呼ばれるのである。

コンウェイの「宇宙」は、一見複雑な人間の行動も、非常に単純な法則に起因していることを示している。そして、その行動は「創造者」(コンウェイの「宇宙」の場合は我々自身なのであるが)が過去に与えた条件を基にしていることを示している。

実際の宇宙では、物質は「途中まで変化するが、その後止まってしまうパターン」のようなものである。我々の宇宙では、自然法則がエネルギーの概念を持つ。そのエネルギーは常に一定で、時間や場所で変わることはない固定値である。真空中で、この固定値を測定し、それを原点、ゼロと定める。もし、真空中に物体が存在するとき、それは「正」のエネルギーを持つ。何故ならばその物質を作るために何らかの仕事がなされなければならなかったからである。しかし、エネルギーの総量は変わらないので、他の何かが「負」のエネルギーを持つことになる。「無」から物体が生まれることはない。「正」のエネルギーと「負」のエネルギーの総和はゼロである。

では宇宙は何故、「無」から生まれることができたのか。そこに「引力」というものの存在の理由がある。引力は「負」のエネルギーである。しかし、その正負の釣り合いは単純なものではない。地球の引力の持つ「負」のエネルギーは、地球が成立したときに必要となった「正」のエネルギーの何億分の一かである。しかし、逆に恒星は「負」のエネルギーである。そして「ブラックホール」は「正」のエネルギーである。恒星はブラックホールに吸い込まれることにより、正負の釣り合いが取れている。そして、空間は安定している。恒星やブラックホールは「無」から生まれることはないが、宇宙は無から生まれることができる。つまり、物質の「正」のエネルギーを引力の「負」のエネルギーと釣り合っているため、「プラスマイナスゼロ」つまり「無」からの宇宙の誕生が可能なのである。

「スーパーシンメトリー理論」がこの正負の釣り合いを述べている。M理論は、この「スーパーシンメトリー理論」をもっと一般的に引力にも当てはめたものだと言える。したがって、M理論は唯一の統一理論だと言ってい良い。

 

 

  

 

 

<感想など>

 

この本は、ドイツ語で論理的な文章を読み、それを理解し、まとめるというトレーニングの一環として読んだ。「量子物理学」を使い「宇宙の起源」を説明するというこの本、一般読者を対象に分かりやすく書かれているとは言え、結構理解するのに手こずることが多かった。文章の構造は簡単だし、語彙も簡単なのだが、理論をイメージし、論理を理解するのが難しかった。しかし、読後の感想としては、

「これだけ複雑なことを、よくこれだけ平易に書けたものだ。」

という驚嘆であった。

 生命の存在は「幸運な偶然」の上に成り立っている。また、宇宙を支配する自然の法則は精緻なものであり、同時に生命の存在に都合の良いものばかりである。それらを説明するのに、「神」の存在を持ち出す人々がこれまで多かった。この本は、その「神」の存在を一切否定している。この本は、殆ど無数に近い宇宙の存在を預言し、「たまたま」生命の存在に適した宇宙に我々が住んでいるにすぎないという。湯を沸かすと、次々と泡が現れるが、宇宙はその泡ひとつひとつのようなものであるという。その例えが一番印象に残った。それぞれの宇宙が、それぞれの自然法則や次元を持っているとのことだ。

 この本は、我々の住む世界に存在する四つの次元(縦、横、高さ、時間)の他に、七つの次元の存在を予言している。しかし、それがどのようなものであるかは明言されていない。それがちょっと物足りない。もしホーキング博士に会う機会があれば、一度聞いてみたい点だ。もちろん、二次元の平面の世界に住んでいる存在は、「高さ」というものは理解できないのと同じように、四次元の世界に住む我々には、その他の次元がどのようなものか理解できないかも知れない。しかし、きっかけくらいはあると思うのだが。

 スティーブン・ホーキング博士は、ご存知のように、ケンブリッジ大学院時代、難病に取りつかれ、数年後の死を宣告された。その後、重度の身体障碍者となりながらも、生き永らえ研究を続けた。そして、ブラックホールの理論により一躍有名になる。通常、良い研究者は良い教育者であるとは限らないが、これほど分かり易い文章を書ける彼は、研究者と教育者の両方の資質を備えた、数少ない人物だと思う。

私事になるが、この本、京都で手術を受けた後の一週間の入院中に読み進んだ。点滴があるのでどこへも行くことができず、本を読むには「最高」の環境下であった。いくら平易に書かれていると言っても、さすがに、そんな特殊な環境でもないと、読める本ではない。読み終わった今、病院の七階の窓から見た、京都の山々を思い出す。

 

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