9章:移民――文化にも良し悪しがあるかもしれない

 

 グローバル化が進むことにより、文化的な差異は狭まりつつあるし、異文化と出合う機会も増えている。同時に、より多くの人が、職、安全、未来を求めると、他の文化の人々と対立する機会も増える。特に、ヨーロッパの中では、それが顕著に見られる。EUは各国の文化の差を、より克明にする働きを担っているとも言える。

 ヨーロッパの繁栄が、より多くの移民を引き付けているのは皮肉なことである。そして、もし、アフリカや中東からの移民をコントロールできなければ、EUの結束は崩れてしまう。イスラム教徒でも、移民先として、同じイスラム国のサウジアラビアを目指さず、ドイツを目指す。それは、ドイツに、移民受け入れの実績があるからである。押し寄せる移民は、ヨーロッパの中に、数々の反応と議論を引き起こしている。まず、その議論の基本的な前提条件を挙げてみる。

@    受け入れ国は、移民を受け入れる。

A    移民は、受け入れ国の規則と価値観に従う。

B    移民は、ある程度受け入れ国に同化した後、その国の国民と同等の権利を得る。

さて、その前提条件を基に、次のような議論がんなされるだろう。

@    移民を受け入れることは、好意によるものか、義務なのかという議論。移民に賛成する人々の意見:「人間には弱者を助ける道徳的な義務があり、それに反対する者はエゴイストか、人種差別主義者である。また、移民を止めることは不可能で、どうせやって来るのなら、地下社会に金が渡らないように合法化したほうがいい。また、人間には、居住、移動の自由がある。」移民に反対する人々の意見;「移民を受け入れるかどうかは、あくまで受け入れ国の判断。全ての国には、侵略者から国を守る集団的権利がある。移民による侵略から国を守る時期であれば、受け入れはあくまで、好意によるものであり、国民が望まないなら、移民を拒絶することも可能である。各国は移民政策を独自に決定でき、例えば宗教を理由も有効である。」しかし、移民が定着し、二世、三世の時代になっても、この反対派の論理は可能だろうか。

A    移民はどこまで、受け入れ国の文化を受け入れ、同化する必要があるのかという議論。特に、宗教の違う国から来た場合、この点が顕著になる。移民に賛成する人はこう言うだろう。「ヨーロッパは元々、多文化の地域である。キリスト教圏だと言っても、ヨーロッパ人さえ教会に行く人は少ない。また、ヨーロッパ文化は、リベラルと寛容が二つの柱のはず。移民の人々の文化には寛容であるべきだ。」しかし、反対派はこう言うだろう。「イスラム教徒は、女性差別をしており、不寛容である。この文化がヨーロッパに持ち込まれると、ヨーロッパの文化が台無しになってしまう。受け入れ国が寛容であるならば、移民も積極的にその国の文化を取り入れなければならない。もし、それが出来ないなら、別の国に行けばいい。」寛容さがヨーロッパのアイデンティティーだと言われるが、そもそも、そんなものがあるのだろうか。

B    受け入れ国は、移民を受け入れ、同化させる義務があるのだろうか。また、いずれは自分たちと同じように扱う義務があるのだろうか。そんな議論。もし、そんな義務があるなら、それが行われる期間はどのくらいなのか。移民賛成者は、できるだけ早い時期での受け入れを望むだろう。そして、反対派は、できるだけ長い「試用期間」を望むだろう。しかし、その試用期間中に、第二世代、第三世代が生まれたらどうなるのか。その国で生まれ育ち、教育も受けているのに、まだ半人前の国民として扱うというのか。また、時間を個人的に測るのか、集団的に測るのかでも大きな違いがある。通常、一つの集団が他の地域に溶け込むのには、何十年もかかるのである。

C    ディール(交渉)が可能であるのかと言う議論。移民が何時まで経っても、受け入れ国に同化しなかったとする。移民反対派の人々は、そんな場合は、「条件を満たしていないのであるから、移民に同等の権利を与える必要はない」と言うだろう。逆に、賛成派の人は、「ひょっとして、受け入れ国は努力を怠っていたのではないか、二世代目、三世代目にも、同等の権利を与えないのはおかしいのではないか」と言うだろう。

これらの議論は、何時まで経っても、終わることはない。受け入れ国には、どのくらいの期間に、どれだけ同化すればオーケーという基準、その評価方法が必要になってくる。仮に、百万人の同化が完了しても、数人のテロリストが現れたら、議論はまた元に戻ってしまう。

 どの文化も同じように価値があると考えられるかどうかが問題となってくる。ドイツの文化はシリアより価値がある。ヨーロッパの文化は他の地域より優れている。一九四五年以降、そんなことを大っぴらに言う人はいなくなった。人種差別は、道徳的にも科学的にも否定されるようになった。ヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人の差は、取るに足らないものであることが判明した。しかし、文化には相違があることは誰もが認めている。文化人類学者が、その差異を研究しているのは、その差異の重要性を認識しているがゆえである。そして、その差異が、モラルや政治に対して重要な役割を果たしていると考えられているからである。しかし、どの文化がどの文化に比べて優れているか、劣っているかが問題にされているわけではない。

 しかし、「他の文化を受け入れやすい文化」というのは確かに存在する。シリアの難民は、同じイスラム教国であるサウジアラビアを目指さず、ドイツを目指す。それは、ドイツに異文化を受け入れるという土壌があるためである。もし、「外国人を受け入れることが良いこと」であるならば、ドイツの文化はサウジアラビアの文化より「良い」と言えるのだろうか。しかし、ドイツとサウジアラビアでは、社会の「規範」が異なる。その規範を考慮に入れないで、単純に文化を比較することは意味をなさない。

 例えば、「寒い国」と「暑い国」があったとする。「寒い国」の社会規範では、人々は争いを避けるように求められ、他人とはあまり親しく付き合わず、無難なことしか話さず、争いが起これば冷却されるまで待つことが求められる。一方「暑い国」では、争いを外面化することが社会規範となっている。人々は感情を抑圧しないで爆発させ、争いごとがあれば、徹底的に争う。両者には良い点もあれば悪い点もあり、どちらが良いかは一概に言い切れない。しかし、「寒い国」出身の人は、「暑い国」では、「社内文化に合わない」という理由で、指導的な地位に就けないということが多い。また、逆も起こりえる。これは、人種によるものではなく、文化によるものである。

人種差別をすることが出来なくなった現代でも、文化による差別は引き続き行われているのである。例えば「黒人」を差別するのではなく、「犯罪率が高いなど」サブカルチャーを利用している。米国では、黒人、南米人、イスラム教徒に対する差別発言が後を絶たない。そして、その発言をした者は、「これは背景となる文化に対するものだ」と言い逃れている。トランプのように、「メキシコ人が米国に来るとき、出来の悪いのが選ばれて送り込まれている」などと発言する者もいる。肌の色は、単にメラニン色素の数による。しかし、ニューヨークの警察は、それにより取り締まりのやり方を変えている。それらは、これまでの文化と歴史に対する偏見によるものである。過去は関係ないと思っても、人々は突如として過去と対峙させられるときがある。

 つまり、差別の言い訳が、生物学的なものから、文化に変わっただけなのである。過去に根差した文化は変えることは難しい。つまり、本人が変えることができないもので差別していることには変わりはない。「自分たちの文化を受け入れたら仲間に入れてやる」という文化主義者は、幾分寛容かも知れないが、違う文化の人々にプレッシャーをかけ続けていることに変わりはない。アフリカ人やイスラム教徒が西洋は文化を受け入れないと非難する人は多い。しかし、どうしても受け入れられない一線というものが誰にもある。また、自分は変えようと思っても、偏見や差別で変えることができない場合もある。しかし、結局それは「努力が足りない」という一言で片づけられる。

 受け継いできた文化が自分と違うというだけで、他人を非難、差別できるのか。文化は変えることがないという点を考えると、それは第二の人種差別ではないのか。文化はそもそも、客観的、科学的なものではない。文化は地域に結び付いている。つまり、その地域では、その方法が妥当なのである。ある方法が別の方法より優れているとは言い切れないし、他の文化から学ぶ方法があるかも知れない。

「ムスリムの文化は非寛容である」という主張は、理論的に正しいか。「非寛容の意味は?」「何に対して非寛容なのか?」という反問が予想される。そもそも、「ムスリムの文化」とは、何時の時代のどこの国文化なのか。オスマン帝国は、他の国々比べて、他文化に対して寛容であったことで有名である。問題は、統計を信用してしまって、個々の人に対して先入観を持つこと、また出身地でその文化を判断してしまうことであろう。統計的にはそうであっても、個人がそうであるかは分からないし、人間は文化だけでなく、個々の遺伝子や環境でも決定されるものである。ステレオタイプとは限らない。 文化による差別は、修正されるべきである。人種差別よりは科学的で、統計に基づいているとは言え、行き過ぎた一般化、先入観という危険もはらんでいる。

 

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