第1章:幻滅――先送りにされた「歴史の終わり」
二十世紀、人類には三つの「神話」があった。「ファシズム」、「共産主義」、「自由主義」である。第二次世界大戦前は、ファシズムが優勢であったが、戦後は共産主義と自由主義の戦いになり、最終的には自由主義が勝利を収めた。今や、自由主義のみが、過去の歴史、未来を説明できると信じている人が多い。
自由主義とは「自由の価値と力を信じる」ということである。かつて人々には自由が制限されていたが、人々は戦うことでそれを勝ち取ったという考え。もちろん、今が最良ではなく、これからも改良していかねばならないが。多くの人々は、「自由を世界に広げることにより、より多くの人が幸せになる」と信じている。彼らの目的は、北朝鮮も含めて、世界の全ての国が自由主義になることである。
事実、一九九〇年代終わり、二〇〇〇年代の初頭、ブラジル、インドなどの国が、自由主義の理想を追った。その結果、自由主義を追わない中国などは「歴史に逆行している」とまで言われるようになった。しかし、二〇〇八年ごろから、流れが変わる。まず、自由な移民、自由貿易に反対する声が高まった。トルコ、ロシアなどは、独裁政治の方向に進んでいく。二〇一六年、保護主義を掲げるドナルド・トランプが大統領に選ばれ、英国のEU離脱が決定した。まさに、自由主義の牙城に、暗雲が立ち込めて始めたと言える。シリアの民主化の試みも失敗し、人々は、「民主化」、「グローバル化」の失敗を認識し始めた。
しかし、今のところ、自由主義以外に選択肢がない。そのため、「選択肢のないことに対する不安」も広がりつつある。更に悲観をして、人類、文明の終焉を予感する人も多い。その不安は、科学技術の進歩がどんどん速くなることで増長されている。余りの速さに、人々は方向感覚を失っている。特に、情報技術とバイオテクノロジーの爆発的な技術革新は、非常に難しい事態をもたらしていて。最先端の技術の現在の立ち位置、その可能性を、誰も理解できていない。また、政治や社会のシステムは、インターネットや人工知能の出現を前提に作られていない。
情報技術とバイオテクノロジーの革命的な発展は、経済や社会だけではなく、人間の肉体や精神にも影響を及ぼす。例えば、老化のメカニズムが解明されることにより、老化が食い止められるようになるかも知れない。また、脳や眠り操作できるようになるかも知れない。また、脳の設計図を解明し、それを模倣することにより、別の人工的な生命体が作り出される可能性もある。そして、その帰結がどこにあるのか、誰も知らない。人類は、これまで環境システムの全容を知らないままに、それを破壊し続けてきた。今、遅まきながら、その複雑な仕組みを理解し、それを制御しようという努力がなされている。今こそ、我々は、技術革命の現状と帰結に、気付かなければならない。
もうひとつの大きな問題は、政治が技術革新に無関心で、常に後手後手に回っていることである。トランプは「メキシコ人がアメリカ人の職を奪う」と言ったが、「AIがアメリカ人の職を奪う」とは言わなかった。どちらの方が、より大きい脅威であることは言うまでもない。人類はこれまで、自由に対する信仰と、民主主義的に対する信仰を持って進んできた。これまで、何度か危機があったが、その「信仰」は変わることはなかった。人々は常に未来に対する展望は持っていた。しかし、今回はそれがない。何より、情報技術とバイオテクノロジーの脅威を、人々の多くが、自分とは関係ないと考えている。
人々は、「政治的な力」が弱まりつつあることには気づき、今、それを最大限に行使することにより、力を保とうとしている。トランプの選出、英国のEU離脱などがそれにあたる。つまり、とり残されたくないと考える人々が、自分の存在の意味と戦っている結果とも言える。
確かに「自由主義」は、これまでも、何度も危機に出会ったが、そのたびに生き残ってきた。帝国主義、ファシズム、東西冷戦などがそれである。それらを克服するたびに、人々は自由主義に改良を加え、より強固なものにしようとした。例えば、自由主義の「自由」とは、最初「ヨーロッパ人の男性の自由」という意味から始まった。二十世紀の初め、英国が「自由」と主張しても、そこには、植民地の被支配者は含まれていなかった。しかし、何度も危機を乗り越えるうちに、そこに「平等」というもう一つの柱が加えられ、「自由」の対象は、労働者階級、女性、少数民族などにも拡大されて行った。
自由、平等の拡大は、簡単な道ではなかった。第二次世界大戦後も、なかなかヨーロッパ以外の地域には適用されなかった。しかし、自由主義の地平は、徐々にではあるが広がって行った。そして、理論的にではあるが、今や全世界に広まったと言ってよい。そして、人々はその間に、国家体制の重要性に気づく。自由のためには、国家による、教育や医療などのシステムの大切さに気付く。「餓えた子供たちは自由ではない」ということに人々は気づいたのだ。
一九九〇年代、「歴史の終わり」、世界は自由主義で終着点に達したという意見が述べられる。「民主主義」、「人権」、「市場経済」、「国家による福祉」で、人類が必要なことは全て揃ったというのである。しかし、歴史は終わらなかった。トランプの登場である。一種のニヒリズムと言ってよい。トランプの示したものは、「世界的なビジョンを作り、それに従うのは、米国の役目ではない」ということ。英国のEU離脱の論理もそれに似ている。トランプを支持した人たち、EU離脱を支持した人たちは、「グローバル化」に失望していた。自分の国での「民主主義」、「市場経済」、「人権の擁護」は支持するが、それを世界に拡大することに興味がない人々と言ってよい。
中国はその真逆を行っている。中国内部が自由化されることは望んでいないが、外国からの自由経済の恩恵は受けたいというものである。
ロシアは「自由主義」の唯一のライバルだと見られていた時期もあった。しかし、ロシアはイデオロギー的に既に破綻している。プーチンのやり方は、民主主義に対抗するモデルのようにも見えるが、一部のオリガルヒへの富と集中と、プーチンがメディアを掌握することによる言論統制という結果をもたらした。遅かれ早かれ、ロシア国民はそれに気づくであろう。リンカーンは次のように述べている。
「一時的に全ての国民をだますことは出来るだろう。また一部の国民をずっとだまし続けることも出来るかもしれない。しかし、全ての国民をずっとだまし続けることは出来ない。」
いかにプーチンやオリガルヒがイデオロギーを正当化しようとも、富の独占が続けば、やがて医療や環境問題にしわ寄せが来て、プーチン政権に危機が訪れるはずである。また、ロシアを支持する、ロシアに援助を受けている人々も、実際、ロシアに住みたいという人はいない。汚職、ひどいサービス、社会正義の欠如が明らかであるからだ。私はこれまで、他国に移住したいという人々に何人も出会った。中国に移住したいという人も少数だがいた。しかし、ロシアに移住したいという人は一人もいなかった。
イスラム教徒のグローバル化が言われている。シリア、イランなどで生まれた若いイスラム教徒が、ドイツや英国などに来ている。しかし、彼らがもう一度、イスラム思想が体現化されている自分に国に戻ったとしても、結局はヨーロッパに戻ってくるだろう。現代において、「何を信用していいのか分からない」と言う人は多い。しかし、現代を、一九一〇年代、三〇年代、六〇年代と比べても、悪くはない。今、自由主義に愛想をつかして飛び出したとして、結局は自由主義に戻ってくるしかないように思える。
グローバル化は諦め、ナショナリズムに徹することは出来るかもしれない。しかし、その先のビジョンがないと何もならない。民族主義が、単に国家の数を増やすだけでは意味がない。インドネシアやベトナムが独立した後、彼らが世界の他の国々とどのように上手くやっていくかが大切なのである。共産主義であろうが、自由主義であろうが、未来に対する展望がなければ意味がない。今の体制に失望したとしても、その後に何があるのか、見極める必要がある。自由主義が破綻したとすれば、その真空を埋めるのはトランプの孤立主義か、中国の覇権主義か、プーチンの帝国主義なのか。どれであろうと、全ては過去の栄光への回帰である。それはノスタルジーに過ぎない。イスラム原理主義、ユダヤ人の原理主義者にしても然り。もう、千四百年前や二千五百年前の世界観に戻れるわけがない。
自由主義の指導者たちは、民衆が自由主義に戻って来てくれることを望んでいる。バラク・オバマは、
「国家、民族、宗教を越えて、開かれた市場、民主主義、人権擁護に戻ってきてほしい。確かに自由主義にも悪い点はある。しかし、総合的にはこれしかない。」
と述べている。しかし、自由主義は、環境の悪化、技術革命とその脅威に対する答えを持っていない。自由主義は「見えざる手」の発動を期待しているだけ。また、経済の発展、ケーキがどんどん大きくなることを前提にしている。しかし、経済の発展が、環境を破壊し続けている。「自由主義と市場経済で世界はどんどん良くなる」と人々に期待を抱かせてきた。しかし、環境はどんどん悪化していく。若い世代は、自由主義と経済成長の神話をもう信じてはいない。新しいモデルが必要となってきた。情報技術とバイオテクノロジーの発展の脅威に対抗できるようなモデルが。「自由」「平等」という、昔のモデルが息を吹き返すのだろうか。それとも、それを凌駕するような新しいモデルが現れるのだろうか。この問題に答えを出せる者はいそうにない。
我々は今「虚無」、「真空」の中に生きている。これまでのモデルで説明がつかなくなった事が多すぎるのに、新しいモデルはまだない。今、必要ことは何だろうか。まずは、パニックにならず、何が足りないのか認識すること。「終わりが近いのではない、次に何が起こるか分からないだけ」と考えることだ。
次の章では、ちょっとイライラするような、新しい可能性について述べてみたい。どのような挑戦を、テクノロジーの発達は突きつけるのか。それに気づいている人はまだ少ない。未来について述べる時も、テクノロジーについて理解はしていても、それを前提に述べるひとはまだ少ない。まず、出来るだけ多くの人々の興味を引き付けるため、「雇用」を題材に取り上げたい。