「死の童話」

Todesmärchen

2016年)

 

 

アンドレアス・グルーバー

Andreas Gruber

1968年〜)

 

 

<はじめに>

 

アンドレアス・グルーバーの名前を知ったのは、二〇一八年、ドイツの書店で、ベストセラーとして山積みされていた、この本を見た時だった。グルーバーは、オーストリア、ウィーン生まれの作家である。推理小説、ホラー、SF等、様々なジャンルに書き分けられる、多彩な才能を持った人である。二〇一六年に発表された「死の童話」は、「スナイダー/ネメツ」シリーズの三作目。ドイツ語圏でベストセラーとなった。

 

<ストーリー>

 

プロローグ、五年前。

マールテン・S・スナイダーは、海岸で、車が来るのを待っていた。囚人護送車が到着し、三人の囚人が降り立つ。そのうちの一人、ピエト・ファン・ルーンを見るために、スナイダーはここに来たのだった。横を通りかかったとき、ファン・ルーンはスナイダーに何かささやく。それはオランダ語で、周囲の人間には理解できなかった。囚人が門の中に去った後、護送車の運転手がスナイダーに封筒を渡す。それはファン・ルーンから預かったものだという。スナイダーは、それを一生開けることがないと思った。運転手は、ファン・ルーンがスナイダーに何をささやいたのかと尋ねる。スナイダーは答える。

「俺たちの間は、まだ何も終わっていない。」

 

スイス、ベルン、十月一日、木曜日。

車椅子に座ったルドルフ・ホロヴィッツは、朝早く、アパートの窓から、外に広がるベルンの街を見下ろしていた。彼が警察を辞めてから、すでに五年が経っていた。携帯がなる。検察官のベルガーからだった。

「あんたの助けが必要だ。直ぐにウンタートア橋まで来てくれ。」

とベルガーは言う。

「俺はもうリタイアしたんだ。」

とホロヴィッツは言うが、ベルガーは、もう既に迎えの車を送ったという。

ホロヴィッツは、現場に到着し、ベルガーに会う。警察は、橋の上のみならず、広い範囲に渡って、立ち入り禁止にしていた。ベルガーは事件を担当する若い刑事、リティーをホロヴィッツに紹介する。リティーは連邦警察から来たと言う。

「連邦警察?どうして、ベルンの地元の警察署が事件を引き受けないんだ。」

ホロヴィッツは、一瞬不思議に思う。ベルガーは、

「ホロヴィッツは、引退したとは言え、これまで最高のプロファイラー。」

と若い警官に言う。

「厳密に言うと、私より優秀なプロファイラーは、世の中に一人だけいる。」

ホロヴィッツは考える。ベルガーは記者会見のために去り、ホロヴィッツに現場を見ることを許し、捜査員にも彼への協力を要請する。橋には足場が組まれていた。死体は、足場に吊り下げられていた。おそらく夜の早いうちに運ばれ、吊るされたと思われた。五十歳ぐらいの女性で、全裸であった。その女性にホロヴィッツは見覚えがあった。

「遺体の腹にライトを当ててくれ。」

ホロヴィッツはリティーに依頼し、死体の腹がライトアップされる。

「直ぐに作業を止めさせろ。皆、道具を片付けて、ここから去ってくれ。」

ホロヴィッツは叫ぶ。

「あんたは誰だ?」

鑑識官や検屍医が尋ねる。

「俺は、検察からここの指揮を任された者だ。」

と彼は答える。警官たちは、渋々引き上げる。

「俺より優秀なやつが世の中に一人いる。そいつを呼んでくれ。そいつが来るまで、この現場に指一本触れちゃいけない。」

とホロヴィッツはリティーに言う。

「ヴィースバーデンのドイツ連保警察、殺人課のマールテン・スナイダーに連絡を取ってくれ。」

「彼が直ぐに来てくれますかね?」

リティーは懐疑的だ。ホロヴィッツは答える。

「死体の腹の写真を送ってくれ。それを見たら、彼は直ぐに飛んで来るから。」

 

九月二十三日、水曜日。

ハナー・ノーラントは、朝、アルカトラツ島に向かう列車に乗っていた。両側は海。島は、デンマークとの国境近くにあり、長い堤防で、本土と結ばれていた。ハナーは島の駅に降り立つ。その島にある「施設」で、彼女は実習生として働くことになっていた。彼女を一人の男が迎える。彼は、フレンクと名乗る。

「『フランク』じゃなくて『フレンク』だ。そんなおかしな名前を付けた母親を強姦して、頭を叩き割ってやったけどね。」

と彼は言う。

「所長が会いたがっている。」

彼はハナーを車に乗せ、施設へと向かう。この施設「シュタインフェルス」は、精神に障害を持つ服役囚のためのものだった。ハナーは、大学を卒業後、五年間、ここで働くチャンスを待っていたのだった。

 

十月一日、木曜日。

ザビ−ネ・ネメツは、ヴィースバーデンの連保警察学校にいた。現在三十歳の彼女は、二年間、マールテン・スナイダーの下で、プロファイラーになる訓練を受けてきた。最後まで残って、無事コースを修了できたのは、彼女と、ティナ・マルティネリの二人だけであった。訓練を終え、殺人課で働き始めたザビーネは、明日から休暇で、故郷のミュンヘンに戻る予定であった。彼女が食堂でコーヒーを飲んでいると、研修生が入って来た。彼等は、口々にスナイダーの悪口を言っている。彼女が講義室の前を通りかかると、スナイダーの声が聞こえていた。授業をしているらしい。彼女は部屋の前に立ち止まって、授業の様子を聞く。

「教官の言う、殺人者の『精神』とは何なのか?生物学的に説明して欲しい。」

生徒の一人が、スナイダーに挑発的な質問をしている。

「きみの、真実を知りたいという質問は、物質的なものに基づいているのか、それとも精神的なもの基づいているのか、どちらだね。」

とスナイダーは反問する。

「もちろん、精神的なものです。」

と生徒が答える。

「きみは、形のない物に基づいて、真実を探そうとしているかい?そうだとすれば、それは矛盾だ。」

とスナイダーは言う。ザビーネはその答えを聞いて、笑ってしまう。そのとき、彼女の電話が鳴る。連邦刑事庁長官のヘスが、彼女と話をしたいという。

 

九月二十三日、水曜日。

ハナーは自分が住むことになる宿舎に案内される。窓からの景色は良かったが、窓には鉄格子がはまっていた。彼女は着替えて、施設の玄関に向かう。建物は古い石造りだが、あちこちに監視カメラが取り付けられていた。玄関には、「自分自身と戦うことは、最も困難な戦争だ」という言葉が彫られていた。この建物は、昔精神病院だったが、火災に遭い、何年も使われていなかった。五年前、パイロットプロジェクトが立ち上げられたとき、建物は改装され、その施設として使われ始めたという。ドアベルを鳴らすと、フレンクが扉を開けた。

「所長がお待ちかねだ。所長は馬鹿で、一日中ディクタフォーンと話している。秘書もモルラは、名前の通り、年取った亀だ。」

フレンクはそう言いながら、ハナーを所長室に案内する。秘書はモルラではなく、モレーナという名前だった。所長のホランダーは、ハナーが予想していたよりも、格段に若い四十代の男だった。

「フレンクの冗談に、一杯喰わされてしまいました。彼は、十五年前に、母親の頭を叩き割ったとも言ってましたが・・・」

とハナーは言う。

「それは本当だ。十四歳の時だ。」

ホランダーは言う。彼は、その場所を「刑務所」ではなく「施設」と呼ばせ、収容者を「囚人」ではなく「クライアント」と呼ばせていた。ホランダーは、自分の施設が、ひとつの新しいプロジェクトの一環であるという。ホランダーは、副所長のイングリット・ケムペン博士が、施設の医療面と安全面を担当していると言う。彼は、ハナーに、彼女が担当することになる、三人の収容者のファイルを渡す。そのうちの一人がピエト・ファン・ルーンであった。

 

九月二十四日、木曜日

 フレンクは、ハナーに施設内を案内した後、彼女を副所長のケムペンのところに連れて行く。かつて軍医であった、ケムペンは、ハナーに辛辣な意見を述べる。

「あなたの経歴を読んだわ。この仕事に応募するのには、ちょっと若すぎて、経験がなさすぎるんじゃないかしら。」

ハナーは、自分には二年間の経験があること。受刑者をセラピーによって矯正することに興味があることを説明し始める。

「所長の受け売りはやめて。」

ケムペンがそれを遮る。

「所長は法律の専門家で、刑務所のことについては、何も知らないわ。少なくとも、狂人たちをまた世間に戻すべきじゃないと、私は思うの。」

ケムペンは自分が、施設のセキュリティーの責任者であるという。

「セラピストとして、囚人たちの幻想を突き破らないといけない。しかし、囚人たちも、あなたの内面を突き破ろとする。」

とケムペンは言う。ハナーは毎日一時間のセラピーを担当する他、事務的な仕事もするように言われる。

「とにかく、今みたいにスカートで来ると、囚人たちのマスターベーションの対象になるから。何かあったら、私のところへ来て。」

そう言って、ケムペンは携帯とラップトップをハナーに渡す。また、施設の地図をハナーに渡す。

「赤い領域には、あなたは入る権限がないから。」

とケムペンは言う。赤い領域には、受刑者たちの房の他に、医療施設も含まれていた。ハナーは、医療施設だけの立ち入りは認めさせる。ケムペンは、ハナーの担当する囚人のファイルを見て驚く。ファン・ルーンが含まれていたからだ。

「ファン・ルーンは、二十四歳で八人を殺した男よ。遺伝病があり、その治療で精神に異常をきたしたけど、彼のIQは異常に高いから注意した方がいい。」

とケムペンは言う。ハナーは、書類に、ファン・ルーンの犯罪のことが一切触れられていないことを指摘する。警察の調書が抜けているのだ。

「あなたには必要のない書類だから。」

とケムペンは言う。ハナーは、ケムペンやホランダーが、何かが隠そうとしていることを、本能的に見抜く。

 

十月一日、木曜日

サビーネは、連邦警察長官のヘスのオフィスへ向かう。ヘスはちょうどオフィスから出てきたところだった。

「新しい仕事ができた。休暇は延期しろ。」

とヘスはザビーネに言う。そして、ザビーネのチームに、スナイダーを入れるように言う。ザビーネは、ヘスが一匹狼のスナイダーを嫌っていることも、スナイダーがチームに入りたがらないのも知っていた。彼女は、スナイダーが必要とされる「仕事」とは何かと不思議に思う。

 ザビーネは、スナイダーが有能なプロファラーであることを認め、師と仰いでいたが、彼と一緒に働くことに、気が進まなかった。スナイダーは、まずチームプレーに向かない性格だった。チームのメンバーを完全に軽蔑してかかるからであった。ザビーネは、スナイダーが講義をしている部屋に入って行く。スナイダーは、二日前に起こった、女性裁判官殺しの事件を教材にして、生徒たちに教えていた。その事件は極めて異常なものであった。殺された裁判官の顔が削ぎ取られ、鏡に張り付けられていたからである。そして、額にナイフで数字の「4」に似た文字が刻まれていた。講義が終わる。スナイダーは、生徒に教えることは、自分の寿命を縮めるほどストレスだと言う。しかし、彼には、「自分の次の世代を育てなければいけない」という、使命感があった。ザビーネは、スナイダーに、彼が、自分と一緒のチームで、新しい事件を担当することになったことを告げる。そのとき、スナイダーに、ヘスの秘書から電話が架かる。

「スイスの連保警察から応援の依頼があった。これからベルンに飛ぶ。」

スナイダーは言った。

 

九月二十四日、木曜日

最初のセラピーのセッションのある日。ハナーは前任者のイレーネ・エリンクの残した記録を読もうとした。しかし、それはどこにも見つからなかった。三人の囚人たちが、二人の刑務官に連れられて、セラピー室に入って来る。手錠は掛けられていないが、足首に鎖が付けられている。刑務官がセラピーの間、その場に立ち会うと言う。ハナーはそれに抗議するが、刑務官は規則だと言ってそこに居る。ヴィクトールとオッシーという二人の囚人が席に着き、ファン・ルーンは窓際に立っていた。

「今日は、皆の紹介のためのセッションにします。」

ハナーは始める。しかし、自己紹介ではなく、隣に座っている人間を紹介するという。まず。オッシーがヴィクトールについて話始める。オッシーは、ヴィクトールを、動物であれ人間であれ、叩き潰さないと気が済まないサディストだと言う。次に、ヴィクトールがオッシーを紹介する。家庭のカムフラージュの中に隠れる、成長不良の小児性愛者だと断定する。ハナーはファン・ルーンに着席を促し、彼はハナーの横の席に着く。

「横の女性は、幼いころのトラウマが元で、男を愛せず、夫どころか恋人もいない。大学で習ったことをそのまま話しているだけ。傲慢に見せているのは、自分を防御しているだけ。そんなことでは、我々に近づくことはできない。」

とファン・ルーンはハナーについて話す。

「誰もが、他人の名前を借りて、自分自身のことを言っているのよ。」

とハナーは切り返す。そこで時間となる。

「今日はここで終わり。次回は『不安』について話すのよ。」

とハナーは三人に言う。囚人たちは去っていく。

 

十月一日、木曜日

ザビーネとスナイダーはベルンに着く。彼等は、スイス連邦警察のメンバーに迎えられ、旧市街に向かう。橋の袂に車が停まる。

「もうすぐホロヴィッツが来る。奴は変わっているから。」

とスナイダーが言う。ザビーネは「スナイダーより変わった人物」に興味を持つ。間もなく車椅子に乗ったホロヴィッツが現れる。ホロヴィッツは、

「三年前にスナイダーと一緒に働き、そのとき犯人は逮捕出来たものの、自分は負傷して歩けなくなり、スナイダーも生きているのが不思議なくらいだ。」

とザビーネに言う。彼は、現場をスナイダーとザビーネに見せる。中年の女性が全裸で、髪の毛だけで橋から吊り下げられていた。朝の七時過ぎに発見されたという。スナイダーは、殺人現場の第一印象、雰囲気を大切にする。彼は、懐中電灯を当てて死体を観察しながら、録音器に語りかけている。橋の照明は、午前二時に消されたという。おそらく、犯人はその直後に死体を橋から吊り下げたと思われた。その時刻、黒いワゴン車が監視カメラに写っており、その車は盗難車であることが分かった。前日中央駅の駐車場で盗まれ、その日、同じ場所で発見されたという。死体の腹には「無限大、∞」の印がナイフで付けられていた。ザビーネはドルトムントの女性裁判官の死体に彫られて印を思い出す。

「どうして、スナイダーを呼んだの?」

ザビーネはホロヴィッツに尋ねる。

「彼は、被害者を良く知っているからだ。被害者は、スイス連邦警察長官のニコラ・ヴィスだ。ヴィスは五年前、スナイダーを紀律違反で訴え、クビにしようとした。」

とホロヴィッツは答える。

ホロヴィッツ、ザビーネとスナイダーは、殺されたニコラ・ヴィスのアパートを訪れていた。スナイダーは、

「これは連続殺人犯の犯行だ。次の殺人が必ず起きる。」

と予言する。そして、

「被害者をとことん卑しめる手口は、心理学的な動機によるものだ。」

と話す。ザビーネは、ドルトムントの女性裁判官殺しとの関係を、否定できないでいた。殺されたのは二人共、成功し高い地位に就いた女性たちだったからである。スナイダーはその関係を否定するが、ホロヴィッツは興味を示す。ベッドには寝た跡がなかった。スナイダーは、被害者の腹の「∞」マークが、スタンリー・ナイフで付けられたものかどうかを調査するように担当警官に命じる。ザビーネはバルコニーに出て、ドイツの病院に電話をする。彼女は、ティナの容態について尋ねる。担当の看護師は、手術は成功し、山は越えたと言う。

 

九月二十四日、木曜日

セラピーの後、ハナーはホランダーを訪れる。ハナーは、クライアントとの信頼関係が必要なので、監視の刑務官を遠ざけるようにと訴える。しかし、ホランダーは、安全上の理由からそれは出来ないと言う。ハナーは粘り強く訴える。ホランダーは、ある写真をハナーに見せる。それは、前任者の死体だった。

「私は、きみに、彼女と同じ目に遭ってほしくない。」

とホランダーは言う。前任者のイレーネは、セラピーの途中、当時まだ鉄格子の入っていなかった窓から海に飛び降りたという。しかし、その前に彼女の頭蓋骨には、殴られた跡があった。

「事故じゃなかったんですね・・・」

ハナーは言う。そして、どうして経験の浅い自分が、後任に採用されたのか、真の理由を知る。前任者の死についての噂が広まり、応募者がなかったのだ。ハナーはそれを逆手に取ることにする。

「自分とクライアントとだけの関係が保てないなら、私は辞めます。」

彼女は部屋を去ろうとする。ホランダーは翻意し、刑務官の監視を付けないでセラピーを行うことを認める。

夕方、ハナーは島をジョギングしていた。彼女は、施設の建物の裏に回る。四十二人の囚人たちの房のある側であった。彼女は、ケムペンの部屋に灯りがついているのを見る。彼女は、携帯から、アムステルダム自宅に電話をする。妹のエマが電話に出る。

「上手く行ったわ。」

と、ハナーは妹に言う。

「どうして、そんなことまでしなくてはいけないの?皆、一度は死ぬ運命なのに。」

妹は言う。そのとき、ケムペンの部屋の明かりが消える。ハナーは電話を切り、建物に戻る。

ハナーは医療施設のある建物に入る。そして、ケムペンのオフィスのドアを、器具を使って開ける。彼女はこれまで、鍵を開けることを常に練習していたのだった。

「もう五年も待ったのよ。これ以上待てない。」

彼女は自分にそう言い聞かせて、ケムペンの部屋に侵入する。そして、囚人たちに関する書類を探す。ファン・ルーンに関する書類を見つけるが、彼女は落胆する。被害者の氏名、ファン・ルーン自身の証言など、多くの、大切な部分が墨塗りされていたからだ。唯一知り得たことは、ファン・ルーンが残虐なやり方で女性たちを殺害したこと。そして、被害者の身体にナイフで文字が彫られていたこと、そしてスナイダーという警官がファン・ルーンを逮捕したことだけだった。被害者の身体に彫られていたのは「N」と「D」という文字だった。逮捕後のカウンセリングで、ファン・ルーンは子供の頃精神的な虐待を受けていたこと、また非常に高い知能を持っていることが分かる。また、彼の被害者は強姦や、性的な暴行を受けた跡はなかったことも。最初の犠牲者はファン・ルーンのガールフレンドであった。そのとき、ハナーは廊下に人の声を聞く、ケムペンのものだった。彼女は、慌てて、ファイルをキャビネットに戻す。そして、指の先をスチールの引き出しの中に入れ、思い切り引き出しを閉める。爪が割れ、血がにじむ。彼女はやってきたケムペンに、自分の傷を見せ、治療のために来たと言う。その前に、彼女はCDを内ポケットに滑り込ませる。ケムペンはハナーを治療室に連れて行く。ハナーは自分の部屋で、持ち去ったCDをコンピューターに差し込む。それは、前任者イレーネの最後のセラピーのものだった。彼女は「電気ショック治療」について話していた。最後は、囚人が去り、イレーネが独りになるところで終わっていた。

 

十月一日、木曜日

ホロヴィッツはザビーネをホテルに連れて行く。ザビーネは姉に電話するが、姉は不在で、三人の姪たちのうち二人と話す。姪たちは、捜査の話を聞くのが好きだった。ザビーネは、休暇でミュンヘンに帰るのは延期になったと伝える。ザビーネは、書類に目を通す。それは、ハーゲンで起こった、女性心理学者の殺害事件のもので、同僚のティナ・マルティネリが担当していた。女性心理学者のアッシェンバッハは、家へ帰る途中姿を消し、近くのホーエンブルク城の中庭で発見される。片足が切り取られ、背中には煙草の日で「S」あるいは「5」の形の印が付けられていた。ティーナはその際、犯人と交戦して負傷し、入院中で会った。ザビーネは、病院にいるティーナに電話をする。彼女は、ちょうど意識を取り戻したところであった。

「私を後ろから襲ったあの男は、普通の殺人犯じゃないわ。あなたも気を付けて。」

とティーナは言う。

「男は銃撃にひるまないで、私の胸を刺したのよ。そして、その男は、壁から、全ての弾痕をほじくりだし、アンモニアのスプレーを掛けていたわ。」

ザビーネはそれが、血痕、ひいてはDNAの痕跡を消すためだと理解できた。つまり、その男のDNAは警察のどこかに記録されているのである。

「アッシェンバッハとBKAの関係を見つけたの。それは・・・」

電話が切れた。看護師が電話を取り上げたと思われた。ザビーネは、アッシェンバッハの経歴を調べる。そして、スナイダーとの関連を見つける。彼女はスナイダーの捜査のやり方を激しく批判していた。そこへ、スナイダーから電話が架かる。

 

九月二十五日、金曜日

ハナーを二回目のセラピーのために、部屋に向かう。彼女は、前任者のイレーネが、事故死ではなく、誰かに殺されたと思うようになっていた。イレーネは五十四歳の、ベテランのセラピストであった。セラピーが終わった後、誰かセラピー室に侵入し、独りでいたイレーネを、窓から投げ落としたと、ハナーは考えていた。三人の囚人が部屋に入って来る。監視人はヘッドフォーンをつけ、周囲の会話が聞こえないようになっていた。それを見て、ファン・ルーンは、

「所長を上手く説得したもんだ。」

と言う。

「あなたたちのためよ。」

とハナーは答える。彼女は、ファン・ルーンには自分の心の中の全てが見透かされているような気がした。

「今日は、皆さんの『不安』について、話してもらいます。」

と、ハナーは切り出す。オッシーが口火を切る。

「俺には不安はない。」

それに対し、珍しくファン・ルーンが自主的に話しに入る。

「誰にも危害を加えられる心配のないここにいるあんたは幸せだよ。」

「今は不安はなくても、過去の不安な状態に戻る、悪夢を見るということはない?」

と、ハナーはオッシーに更に尋ねる。

「男の子の裸を見て、衝動を抑えられない夢を見る。」

と彼は答える。

「眠れないとき、眠ろうとすればするほど、かえって眠れなくなる。衝動を抑えようとすればするほど、衝動は増すものなの。」

とハナーが言うと、

「そんなことは言い古されたカス理論だ。」

とヴィクトールが言う。ハナーはヴィクトール、彼の不安について尋ねる。

「夜動物園の横を通ると、アライグマの子供が自分を悲しそうな目で見ている。そのアライグマは、金属の柵で怪我をして、血を流している。それを自分は助けることができない。」

「それは動物に対する同情なの?」

「いや、同情ではない。特別な感情だ。」

とヴィクトールは答える。ハナーは次に、矛先をファン・ルーンに向ける。

「俺は夢を見ない。」

ファン・ルーンは一言だけで答える。

「俺たちは話しているのに、あいつだけ話さないのは不公平だ。」

他の二人が言う。

「彼も、何時かは話すわ。そうでしょう、ピエト。」

そこで、時間が来て、終わりになる。

「明日は、『攻撃的な衝動』について話をします。」

とハナーは言う。

「あんたは、自分の不安について話してない。不公平だ。」

とオッシーは言う。

「セラピストが自分について語ることはタブーです。」

とハナーは言う。

「あんたの前任者が、あんな死に方をしたのが不安でないのかい?あれは自殺じゃない。もし、あんたが本当のことを知ったら、あんたも同じ目に遭う。」

そう言って、オッシーは去っていく。

 

十月一日、木曜日

ザビーネはホテルの食堂に入って行った。そこには、警察関係者や検察官のベルガーがいた。ザビーネは、ハーゲンの事件について話そうとする。

「それは今回の事件と関係ないだろ。今の事件に集中するべきだ。」

そう言って、スナイダーがザビーネの言葉を遮る。

「ドルトムントとハーゲンの事件には、犯人からの『サイン』が残されているんです。」

とザビーネはスナイダーを無視して続ける。

「二つの事件は、時間的に見て、同一犯人の犯行ではないだろう。」

とスナイダーはまた言葉を挟む。

「ドルトムントでのサインは『4』、ハーゲンでのサインは『5』、今回、ベルンでのサインは『8』だと考えられませんか?そして、三件の殺人事件には、さらに共通点があるんです。」

ザビーネは、スナイダーの方を見て言う。

「あなたとの関係よ。」

「俺が犯人だと言うのか!」

とスナイダーは叫ぶ。

「三人の被害者は、それぞれ、あなたのキャリアーを閉ざそうとしたは。」

「俺にはアリバイがある!」

と彼は再び叫ぶ。そこへリティーが割って入る。

「少なくとも、犯人は、事件を、あなたと関連付けようとしていることは確かだ。」

と彼は言う。

「しかも、スナイダーを嫌っている人間は、世の中に何千人もいる。」

とホロヴィッツが口を挟む。

「犯人の狙いは何だろう。」

と検察官のベルガーが言う。

「スナイダーへの復讐?しかし、それなら、どうしてスナイダーの『敵』を殺すのか?」

皆が考え込む。スナイダーの電話がなる。

「直ぐにここを発たなければならない。別の死体が発見された。レーゲンスブルクに飛ぶので、ヘリコプターを用意してくれ。」

とスナイダーは言う。

「今回の被害者は男性だ。そして『ふたご座』のマークが身体に彫られている。」

 

九月二十五日、金曜日

ハナーは図書室にフレンクを訪れる。ハナーは、ファン・ルーンが借りている本はどんなものかとフレンクに尋ねる。フレンクは貸出カードを見せる。それは医学、解剖学、ボディーランゲージ、心理学、動物の行動、心理カウンセリングなどの本だった。また、ドイツの地理、神話や歴史の本も借りていた。

「答えたくなければ、別に答えなくていいから。」

と前置きして、ハナーは尋ねる。彼女は、ファン・ルーンの行動について質問した後、

「イレーネは自殺じゃなにのね。」

と水を向ける。フレンクは答えに詰まる。

「誰に殺されたの?他の囚人?職員?」

フレンクは答えない。

「電気ショック療法が行われたの?」

答えないフレンクに対して、ハナーは戦術を変える。

「あなたに、個人的なセラピーの時間を取ってあげてもいいわ。でも、私を信頼してくれないとセラピーは上手くいかない。セラピストには守秘義務があり、あなたの言ったことは、私は誰にも言えないの。」

フレンクはしぶしぶ話し出す。

「病棟の後ろに特別な独房がある。過去二年間で三人の囚人がその房に入れられたんだ。」

「その三人の名前は?言わないと、セラピーを受けさえないわよ。」

フレンクは口を開いたまさにその時、ホランダーの秘書が図書室に入って来た。秘書は、用事があるからと言って、フレンクを連れ出す。

 

五年前、ケルン

スナイダーは、殺人現場のアパートに入る。殺されたのは、航空会社の客室乗務員のエヴェリン・ケスラー、二十一歳であった。

「どうして、こんなに若い娘が、高いアパートに住めるのだろうか。」

スナイダーは不思議に思う。寝室で死んでいる被害者は、数日前から死んでいたと見え、腐敗が進んでいた。カレンダーの日めくりは、三日前のものが残っていた。しかし、スナイダーは、もっと前から死んでいたと考える。死体は裸で、背中にナイフで「D」の文字が刻まれていた。ゴミ箱の中から、破り捨てられた二枚の日めくりが見つかる。そこから見つかった指紋は被害者のものではなかった。不思議なことに、その指紋は一部だけしかついていなかった。スナイダーは、犯人の残したメッセージの意味を読み取ろうとする。

 

十月一日、木曜日、レーゲンスブルク

スイスのベルンから、ドイツのレーゲンスブルクまで、スナイダーとザビーネは、スイス警察のヘリコプターで移動する。レーゲンスブルクの病院のヘリポートに降りたふたりは、車で現場へと向かう。そこは、バイエルン自然公園の中にある、森の湖の畔だった。現場にはBKAからティンボルトが既に到着していた。彼は、これまで、裁判官ベックの殺人事件を担当していた。ティンボルトはこれまでの経過を二人に話す。午後、ハイキングに来た二人の老夫婦が、死体を発見した。死体は、一メートル半ほどの高さの切り株の、根の部分に押し込まれ、火を点けられていた。火は午後三時ごろに点けられた模様だが、シーズンオフで近くのホテルは閉まっており、誰も火に気付いたものはいなかった。死体は男性で、頭髪が剃られていた。そこに、「ふたご座」のマークのような、鍵の付いた線が二本彫られていた。

 

九月二十六日、土曜日

ハナーの三回目のセラピー。

「今日は、攻撃的な衝動の原因について話をします。」

とハナーは切り出す。

「あなたたちのことをよりよく知って、助けたいのよ。」

と彼女は言う。

「なら、あんたも自分のことを話せよ。」

とファン・ルーンが言う。ハナーは答える。

「分かった。でも自分の事でなくて、物語を話すわ。町の前に立っている男に、別の場所から来た男が尋ねた。

『ここに住んでいる住人はどんな人たちだね?』

『あんたの町に住んでいる人たちはどんなだ?』

『親切で、情け深いよ。』

『まさに、あんたの町の住人と同じだ。』

別の男が来て、同じことを尋ねた。門の前の男は、同じ反問をする。

『傲慢で、不親切な人ばかりだ。』

『まさに、あんたの町の住人と同じだ。』」

「その話、もう聞いたことがある。」

とオッシーが言う。

「じゃ、その意味を教えて。」

とハナーは言う。

「人間は、皆同じように世界を見る、ということだ。」

とオッシー。

「人間の攻撃性も同じ。誰もが持っているわ。あなたはどこに持っているの?」

というハナーの問いに対して、オッシーは、

「股の間だ。」

と答える。ヴィクトールは、掌の中にあると言う。

「俺は、攻撃性など持っていない。」

とファン・ルーンが言った。

「俺は、自分の感情を完全にコントロールできる人間だ。」

と彼は言う。

「あなたは、劣等感に苛まれているわ。」

とハナーは挑発する。

「劣等感に苛まれているのは、どっちだ。あんたの方だろうが。」

ファン。ルーンは声を荒げる。

「今のあなたの憎悪が、攻撃性そのものなのよ。」

ハナーはい言う。

「憎悪を形にしてみて。」

とハナーは言う。ファン・ルーンは、自分の中に、小さな黒い男がおり、その男が周囲の全てを叩き潰したいと思っていると言う。ハナーは、その黒い男と対話する形で、質問を続ける。ファン・ルーンは次第に激高し、最後は椅子を蹴り、壊してしまう。ハナーは、セラピーが成功したと確信する。セラピーが終わる。ファン・ルーンがハナーに言う。

「黒い男の話、気に入ったか?」

 

十月一日、木曜日

ザビーネは、男が生きたまま火を点けられていたことを知る。彼女は、男に刻まれた印が「11」という数字ではないかと考える。スナイダーは、深夜にも関わらず、ずっと電話をしている。ザビーネは、現場を離れ、録音で第一発見者の証言を聞く。彼女は、湖畔に、木でできたシェルターがあり、そこに海水パンツとタオルが干してあり、その横に釣り竿が置いてあるのを見つける。彼女は、森の中に、オランダナンバーのキャンピングカーを見つける。彼女はスナイダーに電話をし、キャンピングカーに近づく。彼女は、キャンピングカーの中に入る。おそらく、釣りをしていたか、泳いでいた男は、この車から裸足で出て行ったと思われた。不思議なことに、免許証、車検証などの書類は一切なかった。スナイダーとティンボルトがやって来る。

「この車は、被害者のものに違いないわ。」

とザビーネは言う。中に入ったスナイダーはザビーネに答える。

「それは正しくない。この車は加害者の車だ。戸棚の中に、切り取られた女性の片足がある。」

 

九月二十六日 土曜日

ハナーは、ファン・ルーンのセラピーの最後での態度で、セラピー自体が禁止されるのではないかと、心配していた。彼女は、図書館に、フレンクを訪れる。

「俺のセラピーをすることについて、所長と話したか?」

とフレンクはハナーに迫る。

「大丈夫よ。」

とハナーは請け合う。

「俺は、自分の不安と夢について書いてきた。読んでくれ。」

フレンクはハナーに紙を渡す。そこには、ハナーと行われるセックスの空想が書かれていた。ハナーは慌てて図書館を出る。次にハナーはケムペンのオフィスへ行く。

「自分の担当する囚人の、医療に関する履歴を見て、セラピーの参考にしたい。」

という理由で、彼女は十人の囚人のファイルを借り出す。ハナーは、前任者のイレーネも、同じファイルを借りていたことを知る。

 

十月二日、金曜日

鑑識がキャンピングカーに到着し、調査が始まる。スナイダーはまた、誰かと電話で話している。ザビーネは、コンピューターで、BKAのデータベースへの接続を試みる。彼女は、死体に数字が刻まれていた、最近のケースを調べるが、該当するものはない。検索の範囲を広げた彼女は、五年前の事件に行き当たる。オランダとドイツで、五人の女性が殺され、身体に文字が刻まれていた。犯人はベルンで捕らえられていた。そして、逮捕したのはスナイダーとホロヴィッツだった。そして、その犯人は、今特殊医療刑務所にいた。アムステルダム生まれ、今二十七歳のはずであった。ザビーネは、スナイダーとホロヴィッツが、今回の事件と五年前の事件の関連を知りながら、自分に黙っていたことに腹を立てる。ザビーネはスナイダーを捕まえ、自分に全てを伝えなかったことをなじる。

「あんたが関係のないことに気を取られて、今回の事件に集中できないといけないと思って言わなかった。」

とスナイダーは言う。

「関係がないって、誰が言い切れるのよ。」

とザビーネは迫る。

「俺がだ。しかし、真実を言わないで済まなかった。」

ザビーネは、スナイダーがあっさりと謝ってきたのが意外だった。

「確かに今回の事件はファン・ルーンの犯行に似ている。しかし奴は、刑務所にいるんだ。今、刑務所にDNA鑑定を依頼したところだ。」

とスナイダーは言う。

「指紋は?」

とザビーネが尋ねる。

「奴は、五年前、酸で指を焼いてしまい、指紋はない。」

スナイダーは答える。

 

九月二十六日、土曜日

ハナーは自室にいた。彼女は、ケムペンから借りたファイルを開く。フレンクが挙げた三人の囚人の、医療履歴を読み始める。一人目の男は、幼児殺害の犯人であったが、身体に電気ショックを受けた跡があった。どうしてそのような拷問を受けたか、誰によって受けたかは不明になっていた。二人目の男は、耳元で大きな音を受けたことにより聴力をうしなっていた。その原因も、誰によるものかは、同じく不明だった。三人目がファン・ルーンだった。彼は、二年前に睾丸を、ペンチのようなもので切断されていた。そして、原因も犯人も不明。しかし、不思議なことに、その三つの事件は、警察沙汰にもならず、誰からも訴えが起こされていなかった。ハナーは焦げ臭いに気付く。彼女は天井の電灯とカバーの間に紙が置かれており、それが焦げているのに気付く。その紙を降ろして、彼女は読み始める。それは、昨年の秋、イレーネとの間に交わされたEメールだった。何者かが、イレーネに金を払い、ファン・ルーンに関する調査を依頼していた。

 

五年前 フランクフルト

ハノーファーとケルンの後、次はフランクフルトだった。スナイダーはフランクフルト郊外にある、高級住宅街に向かう。八月中旬のことだった。豪邸、父親は銀行の副社長であるという。その中で、二十一歳の女性が殺されていた。両親は休暇に出掛けており、女性だけが家に居た。死体は、ビキニを着た状態で、リビングルームのガラスのテーブルのうえにうつ伏せに横たわっていた。死体は、身体中の骨が砕けるほど、ハンマーで叩かれていた。犯人は最初に頸を切り、生きている女性をテーブルの上に乗せ、ハンマーで叩いたようであった。犯人は、ずっと家を見張り、朝プールで泳ぐために出てきたところを待ち伏せしたようであった。被害者の胸には、「E」と言う文字が刻まれていた。

 

十月二日、金曜日

ザビーネとスナイダーは一度ホテルに入るが、朝七時にはホテルを出て、ミュンヘン空港に向かっていた。ミュンヘンからフランクフルト行きの飛行機に乗る予定だった。

「ファン・ルーンについて、もう少し話してくれない?」

とザビーネはスナイダーに言う。

「俺は犯罪心理学を学び、自分なりに理論を作り、その理論は殆ど全ての場合に当てはまった。最初の例外がファン・ルーンだった。彼は、周囲の人間を観察し、研究する。そして、その行動を予測するだけではなく、その人間を操作するのだ。彼は知的で、常に勉強し、進化している。」

スナイダーは述べる。そのとき、ザビーネの電話が鳴る。姪からであった。ザビーネは、姪に事件の概要を説明する。姪は、

「どれも童話みたい。」

と言う。その一言で、ザビーネは、今回の事件が「みにくいアヒルの子」や「裸の王様」など、童話に関係していることに気付く。

「ファン・ルーンって、演劇をやっていなかった?」

とザビーネはスナイダーに尋ねる。

「若いころ、童話のパロディーを舞台に掛けていたそうだ。」

スナイダーは答える。

 

九月二十七日、日曜日

 ハナーは、ホランダーの秘書に呼ばれる。彼女が所長室に行くと、ケムペンも一緒にいた。

「前任者が探っていたことを、あんたも探っている。どうしてだ?」

とホランダーは言う。

「何のことですか?」

と、ハナーはとぼける。

「あんたのファン・ルーンに対する興味は、セラピストとしての職業の限界を超えている。」

とホランダーは言う。

「あんたのセラピーの内容は分かっているのだ。」

ハナーは、監視人が実はセラピーの内容を聞き、所長に報告していたことを知る。

「あんたはオランダ人で、アムステルダム出身だ。ファン・ルーンと同じだ。あんたの、元の名前は、アナ・ファン・ルーヴェンだ。どうして、ドイツに来るときに名前を変えたんだ?」

ホランダーはハナーに尋ねる。

「個人的な理由で、言うことはできません。名前を変えることは違法でもなんでもないし。」

とハナーは言う。

「あんたは、ファン。ルーンを以前から知っているのだ。囚人と個人的な関係がある人間を、雇うことはできない。」

とホランダーは言う。

「あなたたちが、囚人を虐待していることは、分かっているんです。」

ハナーは反撃に転じる。ホランダーは狼狽の色を見せる。

「証拠があるのか。」

そこで、ケムペンが口を挟む。

「私の部屋のブラインド、閉めていたのに、あなたと会った後、また開いていたわ。直ぐに書類をチェックしたんだけど、CDがなくなってる。あなたが盗んだことは分かっているの。今日中に返しなさい。」

ケムペンはそう命じる。

 

十月二日、金曜日

 スナイダーとザビーネは、ミュンヘン空港に着くが、まだチェックインカウンターは開いていなかった。ザビーネは待つ間に、書店へ行き、「アンデルセン全童話集」を買う。分厚い本だった。彼女は、姪が述べた「みにくいアヒルの子」、「裸の王様」、「火打ち箱」を読む。確かに、三つの童話と、今回の三件の殺人事件の共通点があった。スナイダーにSMSが入る。

「悪い知らせと、良い知らせだ。どちらを先に聞きたいか。」

とスナイダーはザビーネに尋ねる。良い知らせとは、

「ウィーンで死体に文字の刻まれた、同じような殺人事件起こった。」

ということであった。

「俺は行き先を変更してこれからウィーンに向かう。あんたは、北ドイツの刑務所に行って、ファン・ルーンに会って来てくれ。くれぐれも、俺の知り合いだと、ファン・ルーンに感づかれないように。」

ふたりはそれぞれ別の飛行機に乗る。

 

九月二十七日、日曜日

ハナーはコピーを取った後、CDをケムペンに返却する。彼女は、

「パズルのパーツは揃った。後はそれを正しく組み合わせるだけだ。」

とつぶやく。秘書から電話が架かる。

「所長はあなたの解雇を決定した。今日中に荷物をまとめて、備品を返却した後、明朝の列車でここを出て行ってください。」

と秘書は言う。

「ここで黙って去ったら、これまでの準備が水の泡になる。」

彼女は、図書室で借りた本を持って、宿舎を出て、施設に向かう。彼女は所長の秘書に会う。

「今頃どこへ行くの?」

と秘書が尋ねる。ハナーは、

「明日発つので、図書館に本を返しに。」

と答える。ハナーが図書室に行くと、フレンクがまだそこに居た。

「頼みたいことがあるんだけど。ファン・ルーンとコンタクトを取って欲しいの。」

ハナーは話しかける。

「知らないのか。彼は房で暴れ出し、止めに入った職員と格闘になり、大怪我をして、今病棟の隔離病室にいる。今から十分ほど前だ。」

とフレンクは答える。

「麻酔薬を飲まされ、今は、それが効いているはずだ。」

とフレンクは言う。

 

五年前、シュツットガルト

ヘスとスナイダーはシュツットガルトの、ネッカー川に浮かぶボートの上に居た。その船の船室で、第四の犠牲者が発見されたのだった。殺されたのは、「緑の党」の女性政治家だった。彼女は、頭蓋骨を砕かれて、身体に「D」という文字が彫られていた。ヘスは、

「今回の事件は、刻まれた文字も含めて、マスコミに公表する。」

と言う。スナイダーは反対する。

「政治家だけに、影響力が強く、黙っていられない。また、犯人を挑発するために、『死体は強姦されていた』と発表することにする。」

スナイダーは、

「もう、どうなっても知らない。」

と言う。

 

十月二日、金曜日

ザビーネは、ミュンヘンからハンブルクに飛び、そこから車で、特殊刑務所のある島に向かう。彼女はアンデルセンの童話を読み、片足を切り取られた法廷心理学者は、童話「片足の錫の兵士」のパロディーであることを発見する。彼女は、所長のホランダーに迎えられ、施設に入る。ホランダーは、ファン・ルーンは数日前に大怪我をしており、尋問に耐えられないかも知れないと言う。ザビーネは、ガラス越しにファン・ルーンに会う。彼は、顔が腫れており、手足も怪我をしており、動くのが辛そうだった。ザビーネはガラス越しにファン・ルーンと話す。ザビーネは、ファン・ルーが、自分が何をしに来たか知っていると感じる。

「あなたの書いた戯曲について、話をしたいの。どんな童話なの?」

ザビーネは切り出す。

「どうして、それを知りたいんだ。」

「昔の殺人について調べていて、行き当たったのよ。」

とザビーネは言う。

「昔ではなく、今の事件だろう。」

ファン・ルーンは言う。ザビーネはそれを認める。ファン・ルーンは、ザビーネが現在の事件の捜査状況について話すことを条件に、自分も童話劇について話すという。劇は、アンデルセンの童話を基にしたものであるという。アンデルセンの童話は、単に民話を取材したものではなく、創造性があるという。「裸の王様」、「みにくいアヒルの子」、「火打ち箱」、「人魚姫」、「エンドウ豆の上に寝たお姫さま」、「空飛ぶトランク」、「しっかり者のスズの兵隊」、「雪の女王」。「マッチ売りの少女」、「いたずらっ子」の十篇に題材を取ったという。

話しているとき、ザビーネは、ファン・ルーンのオランダ語訛りのドイツ語が、スナイダーのものとどこか違うことに気付く。彼女は、その場を離れて、ホランダーに面会を求める。ホランダーは不在で、ケムペンが彼女に会う。

「あの男はファン・ルーンではない。」

とザビーネはケムペンに言う。最初は有り得ないと言っていたケムペンだが、そこにちょうどDNA鑑定の結果が入り、ザビーネと会った男はファン・ルーンでないことが分かる。ファン・ルーンが怪我をした際、フレンクとファン・ルーンが入れ替わり、ファン・ルーンは逃亡、フレンクが替え玉として病棟にいたことが明らかになる。

 

九月二十七日、土曜日 

図書室を出たハナーは病棟に入る。フレンクも、荷物を持って病棟に入った。ハナーは、ケムペンのオフィスの鍵を破りそこに入る。そして、隔離病室の鍵を盗み出す。彼女が、隔離病室に入ると、ファン・ルーンが、皮紐で、両手両足を縛られてベッドに横たわっていた。鎮静剤を飲まされているようであった。ハナーは用意した濃い塩水を彼に飲ませる。ファン・ルーンの胃は、反射的に嘔吐を始める。そして、鎮静剤も一緒に吐き出される。間もなく、ファン・ルーンは意識を取り戻す。ハナーは、

「どうして、自分の姉を殺したのか。」

とファン・ルーンに尋ねる。彼女は、最初の犠牲者、サラ・ファン・レーヴェンの妹だったのだ。ハナーは姉の無残な死体を発見、そのトラウマから、二度自殺を企て、その都度、妹のエマに助けられていた。ハナーは、ファン・ルーンが巧みに手足の拘束を解こうとしているのに気付く。彼女は、ドアから外に出ようとする。ドアを開けると、フレンクが立っていた。フレンクは、彼女の手足を縛り、さるぐつわをはめる。その前で、ファン・ルーンは、フレンクの髪を自分と同じ長さに切り、着ている物を交換する。

「用意は良いか。」

ファン・ルーンはフレンクに尋ねる。

「大丈夫だ。鎮痛剤はしっかり飲んできた。」

フレンクは答える。ファン・ルーンは、フレンクの顔、手足を殴り、自分と同じような怪我を負わせる。そして、彼をベッドに縛り付け、ハナーを連れて部屋を出て行く。

「これが男の友情だ。」

とフレンクは言う。ファン・ルーンは、ケムペンのオフィスに入り、唯一、鉄格子の入っていない窓を開け、そこからハナーを突き落とす。ハナーは三メートル下の地面に落ちる。続いて、ファンルーンも飛び降りる。ファン・ルーンはハナーをアパートまで連れて行き、荷造りをさせ、ハナーの荷物を持って、ふたりは鉄道の駅に向かう。そこから、雨の中を、線路に沿って歩き始める。

 

十月二日、金曜日

ファン・ルーンの脱獄が分かり、気落ちしているケムペンに、ザビーネは、ファン・ルーンの面会記録を見せてくれるように頼む。それを見ると、二年前まで、頻繁にスナイダーがファン・ルーンとの面会に訪れていた。しかし、二年前に、その訪問はプツリと途絶えていた。もう一人、ファン・ルーンを定期的に訪れている人物がいたが、その名前は、黒いペンで塗りつぶされていた。ザビーネが良く見ると、「D」と「H」というイニシャルが読み取れた。ザビーネはBKA長官の「ディートリヒ・ヘス」ではないかと考える。

「スナイダーの他に、誰がファン・ルーンに面会に来ていたのだ?」

とザビーネはケムペンに尋ねる。

「名前を消したのは、BKAの上部からの命令だ。名前は言えない。」

とケムペンは答える。フレンクの証言により、ファン・ルーンが脱獄してから、既に五日間が立っていることが分かる。ザビーネは、フレンクの手の甲に「1」という数字が彫りこまれていることを見つける。

 

十月二日、金曜日

スナイダーはウィーンに着く。地元警察のハウザーが彼を出迎え、三人が殺された現場へ連れて行く。殺されたのはエーリヒ・フォン・ケスラーと、彼の妻と息子の三人であった。スナイダーはケスラーを知っていた。五年前、連続殺人事件で最初に殺された女性の父親だった。スナイダーはウィーン郊外のケスラーの家に着く。そこは豪邸だった。二階のサロンのソファの上に、三人の遺体があった。凄惨な光景だった。三人は、パジャマ姿で、口から、胃まで突き刺すように、傘が入れられていた。息子の身体には、「12」の文字、妻の身体には「13」、そしてケスラーには「15」の文字が刻まれていた。

「こんなことをするのは、ピエト・ファン・ルーン以外にあり得ない。」

スナイダーは呟く。レーゲンスブルクの事件を調べているティボルトから電話が入る。

「殺された男の身元が判明した。アレ・ペータースというオランダ人だ。キャンピングカーを借りたのもペータースだ。」

とティンボルトは言う。スナイダーはペータースを知っていた。彼は三人の死体の横に、着火剤が置かれているのに気付く。

「これは、ペータースに掛けられたものだ。」

スナイダーは直感する。隣人の少年が、何かを目撃しているということを聞き、スナイダーは隣家へ向かう。 

 隣の家に住むグレゴールという少年は何も思い出せないという。スナイダーは少年を催眠術にかけ、記憶を呼び出させる。それによると、少年は遅くまで友達とスケートボードで遊んでいて、八時半ごろ、家に帰ったという。そのとき、ケスラーの家の前に、ひとりの男が立っているのを見た。暗がりだったが、たまたま車が通り、ヘッドライトでその男の顔が照らされた。顔全体が腫れていたという。そして、少年は男を「筋肉質、薄い色の短い髪」と描写する。

「ファン・ルーンに間違いない。」

スナイダーは確信する。

 

十月二日、金曜日

ザビーネは刑務所を出て、タクシーでハンブルクに戻る。彼女は、アンデルセンの童話を手にしていた。タクシーの中から、彼女はスナイダーに電話をする。スナイダーはウィーンのカフェに居た。

「ファン・ルーンは逃げた。」

とザビーネは切り出す。スナイダーに驚いた様子はなかった。ザビーネは脱獄の経緯を、スナイダーに話す。スナイダーも、三人が口の傘を突き刺されて死んでいたことを述べる。

「オーレ・ルケエの童話ね。」

ザビーネは、ウィーンの殺人を、既にアンデルセンの童話のひとつと結びつけていた。悪い子供に悪夢を置いていく「砂男」の話。生きたまま、口に傘を突き刺されるのが「悪夢」でなくて何であろう。

「ケスラーを知っているの?彼はあなたを嫌っていたの?」

とザビーネは尋ねる。スナイダーは言葉を濁す。彼は、レーゲンスブルクで殺された男の素性をザビーネに伝える。

「あなたの知り合い?」

ザビーネは尋ねる。スナイダーは、ペータースは、軍隊時代の同僚であり、自分と同じように同性愛者であると言う。

「あなたたちは、恋人同士だったの?」

とザビーネは単刀直入に聞く。スナイダーはそれを認める。ペータースと彼は、気まずい別れ方をして、ペータースは彼を嫌っていると言う。

「一体、あなたを一番嫌っているのは誰なの?」

とザビーネは呆れて尋ねる。

「母親かも・・・・」

スナイダーは答える。彼は、母親が今、ロッテルダムに住んでいるという。突然スナイダーは叫ぶ。

「直ぐにロッテルダムに行け!俺もこれから向かう。」

そう言って、スナイダーは電話を切る。

 

五年前、ヴィースバーデン

スナイダーは、シュツットガルトで殺された女性政治家の身体に「R」の文字が刻まれていたことを知る。これで、四人の死体に刻まれていた文字は「N」、「D」、「E」、「R」になった。彼は、その文字が使われている言葉を考える。自分の名前、「S-N-E-I-J-D-E-R」なのか。「N-I-E-D-E-R-L-A-N-D-E」(オランダ)なのかの。彼は突然ある単語を思いつく。

「くそ、ロッテルダムを探さなければならなかったんだ。」

彼は叫ぶ。

 

十月二日、金曜日

ロッテルダム空港で落ち合ったザビーネとスナイダーはタクシーで、スナイダーの母親が住む家に向かう。

「どうして、あなたの母親は、あなたを憎んでいるの?」

ザビーネはタクシーの中で、スナイダーに尋ねる。

「俺が、父親を殺したと思っているからだ。」

とスナイダーは答える。彼は、両親の辿った道を話す。

「ロッテルダムに住んでいた両親は、父親が書店を開くためにドイツへ行った。父親は本が好きて、書店を経営するのが夢だった。しかし、事業に失敗し、父親は自殺した。俺が二十一歳の時だった。その六年後俺は、オランダを出てドイツに向かった。しかし、母親は、俺が同性愛者であることを苦にして、父親が自殺したと考えているのだ。父親の死後、母はオランダに戻った。」

二人は、スナイダーの母の家、そこはスナイダー自身が生まれ育った家でもあった。中には誰もいない。スナイダーは、強い近眼の母親の眼鏡が、机の上に置かれたままになっているのに気付く。

「外出ではない・・・」

彼は狂ったように、家中を探し出す。そして、庭の小屋の中で、母親の死体を発見する。小屋の扉を開けた途端に、ベートーベンの「第九」が流れ出し、そこに、裸の母親が、足を庭仕事用のシュレッダーに突っ込まれて死んでいた。母親の足は砕かれていた。それを見たザビーネは呟く。

「人魚姫・・・」

 

九月二十八日、月曜日

 早朝五時、ファン・ルーンとハナーは、対岸の町に着く。そこには、フレンクの用意した車があった。ファン・ルーンは、ハナーをトランクに押し込み、車をスタートさせる。数時間後、車はフレンスブルクに着く。そこで、彼らは、これもフレンクが用意していたトラックに乗り換える。ハナーはトラックの荷台に縛り付けられる。ファンルーンは、用心深く下道ばかりを選び、オランダとの国境に向かう。

 車がオランダに入る。ファン・ルーンは、

「いよいよ、劇の幕が切って落とされた。」

とつぶやく。

 

十月二日、金曜日

スナイダーは、母親の死を悲しむ様子を見せていなかった。

「母親は自分にとって、二十年前にもう死んでいる。」

と彼は言う。彼は、ファン・ルーンが、完全に自分の行動を読んで先回りしていることを知る。彼は、絵の後ろにある隠し金庫を開け、中から封筒を取り出す。

「これは、父親の隠し金庫だったが、今は、俺が使わせてもらっている。」

彼は、封筒をザビーネに渡す。その中には、ファン・ルーンに関する書類と、彼が、学生の頃に書いた戯曲の原稿が入っていた。

 戯曲はデンマーク語で書かれていたが、ザビーネはおよその見当が付いた。タイトルは「死の童話」で、三幕十五場構成の劇だった。

第一幕

1.    「エンドウ豆の上に寝たお姫さま」、

2.    「人魚姫」

3.    「みにくいアヒルの子」

4.    「しっかり者のスズの兵隊」

5.    「裸の王様」

第二幕

6.    アンデルセン自身のエピソード

7.    アンデルセン自身のエピソード

8.    「火打ち箱」

9.    アンデルセン自身のエピソード

10.  アンデルセン自身のエピソード

第三幕

11.  「空飛ぶトランク」

12.  「いたずらっ子」

13.  アンデルセン自身のエピソード

14.  「雪の情報」

15.  「マッチ売りの少女」

この章立てを読んだ時、ザビーネは下に刻まれていた数字の意味を理解した。数字は、童話の語られた「場」のナンバーだったのだ。そして、それを模した殺人事件が行われた童話のナンバーではなく、次の事件を予告する番号だったのだ。

「どうして、あなたは、こんなものを持っているの?あなたと、ファン・ルーンはどういう関係なの?」

ザビーネはスナイダーに迫る。スナイダーは語り始める。それは、ザビーネの想像を絶するものだった・・・

 

 

<感想など>

 

作者は、作品に命を与える「全能の神」で、ありとあらゆることが可能だ。しかし、作品に対して、ひいては読者に対して、「これをやっちゃおしまいよ」という最低の礼儀、「お約束事」がある。アガサ・クリスティーは、彼女の作品の中で、何度かその「お約束事」を破って、読者をあっと言わせた。例えば、「アクロイド殺人事件」で、クリスティーは「書いている本人が犯人でした」という禁じ手を使った。この「死の童話」を読んで、「これをやっていいの?」と思った。読者の信頼を裏切る、ギリギリのところで、話が進められている。

 二つのストーリーラインが同時に語られるというよくあるパターン。ひとつは、オランダ、ドイツ、オーストリア、スイスで起こった連続殺人事件を捜査するBKA(ドイツ連邦刑事庁)のザビーネ・ネメツとマーステン・S・スナイダーのストーリー。もうひとつは、北ドイツ、デンマークとの国境にある、精神異常の犯罪者を収容した特殊刑務所に赴任した女性セラピスト、ハナー・ノーラントのストーリーである。同時進行かと思うが、ハナーのストーリーの方が、ザビーネとスナイダーのストーリーより、一週間ほど早い。この時間差が、物語の進行中、大きな意味を持つ。

 五年前に、四人の女性の連続殺人事件があった。殺された女性は、ハンマーで身体中の骨を砕かれた後、ナイフで身体に文字を刻まれていた。その犯人、ピエト・ファン・ルーンはBKAのプロファイラー、マールテン・S・スナイダーによって逮捕され、厳重な特殊刑務所に収容された。それから、五年後、ベルンを皮切りに、連続殺人事件が起こる。そして、今回も被害者の身体に番号が刻まれていた。今回もスナイダーがその事件を担当することになる。パートナーは同じくBKAの女性刑事ザビーネ・ネメツである。一番の容疑者はピエト・ファン・ルーンであるが、彼は刑務所にいることになっている。犯人は、ファン・ルーンなのか?だとすると、どうして、刑務所にいる彼が事件を起こせるのか?というところがこの小説の興味となる。

タイトルは「死の童話」となっている。童話や民話、童謡になぞらえて殺人行われるというパターン、これは新しい物ではない。アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」も、その一例かも知れない。今回は、デンマークの作家ハンス・クリスティアン・アンデルセンの童話から題材を取った殺人が連続して発生する。「アンデルセン童話」というのは、グリム童話のように、民間で話されていたものを文章化したものでなく、アンデルセンの創作であるという。そして、彼の童話というのは、結構人が死んだり、残酷なシーンも登場するという。

面白いストーリーなのだが、かなりフラストレーションが溜まった。スナイダーとザビーネは、一緒のチームで捜査活動をするのであるが、スナイダーが、自分の持っている情報を、なかなか同僚のザビーネに伝えないのである。彼が情報を「小出し」にすることにより、ストーリーが少しずつ進むというパターン。

「そんなに知っているなら、最初からちゃんと言えよ。」

と突っ込みたくなる。いくら、ストーリーの展開のためとは言え、ここまで、同僚にも重要情報を隠し通すのは、読んでいて、正直不自然に感じた、フラストレーションが溜まった。

「なんだ、お前、最初から知ってたんじゃないか。」

と、騙されていたような気分になることも多々あった。

 ピエト・ファン・ルーンは、犯罪をするために生まれてきたという、高い知能指数を持つ人物として描かれている。とにかく、先を読む力、特に人間の次の行動を予測する力は驚異的。捜査班が考えて行動したつもりでも、ファン・ルーンは常に先回りをしている。また、自分の行動を他人に予測させない。セラピストとして、ハナーは特殊刑務所に赴き、ファン・ルーンとセラピーを行うのだが、丁々発止、本当に「火花の散る心理戦」ということで、読んでいてドキドキした。

 アンドレアス・グルーバーという人は、多才な人である。同名のサッカー選手がいて、検索すると、ほとんどがサッカー選手に引っ掛かる。彼は、SF、ファンタジーの分野でも沢山の作品を発表しており、その分野で数々の賞を受けている。「ザビーネ・ネメツ/マーステン・S・スナイダー」シリーズは、二〇一一年から、現在二〇二〇年まで、五作が発表され、この作品は三冊目である。この結末で、どのように、続編を書くことができるのか興味が湧く。その辺り、著者の、次の本のプロモーションもぬかりない。

 読み易い。「彼」とか「彼女」で章が始まり、それが誰であるのか途中でやっと分かる、などという、テクニックに頼らない、実にストレートな文で構成されている。章立ても、長過ぎず、短すぎず、ちょうど良い。場面転換も絶妙である。五百ページを超える長尺だが、ストーリーに引き込まれて一気に読める。あとがきで、著者が明かしているが、彼は「テスト読者」に第一稿を読ませ、その感想を基に、手を加えたという。その辺り、読者を意識した書き方が徹底されている。しかし、先にも書いたが、途中まで読者に隠された事実が余りにも多すぎて、ちょっと騙されたような気分になる本である。

 

202011月)

 

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