昭和十年の新聞
父の小学校の卒業証書。戦争で亡くなった兄弟のものも一緒だった。
父は生前切手を集めていた。しかし、十年位前から新しく買うのをやめ、それまで集めた切手を使いだした。それで父からの手紙には、きれいな記念切手が何枚も貼ってあるのが普通だった。父が切手を入れていた茶箱を開ける。
「お母さん、一生切手を買う必要ないで。」
そこにはまだ最低でも十万円分くらいの未使用の切手があった。使用済みの切手は、娘のミドリに父の形見として持って帰ることにした。
切手の入っていた茶箱の底に、茶色くなった新聞紙が敷いてあった。破らないように注意して取り出す。右から左に書かれているが、「昭和十年三月十二日、大阪毎日新聞」と読める。
「お母さん、見て見て。また面白い物見つけた。」
早速継母とその新聞を見る。継母がまだ三歳の頃の新聞。当時十五歳だった父は、その頃にこの茶箱を何らかの方法で手に入れ、手近にあった新聞紙を底に敷いたのだ。
この年、欧州と日本の間で初めて電話が通じたらしい。「ラヂオ」欄には「對歐電話開通記念國際放送」の特集があった。日本側からは、喜代三という人が「カンチロリン」という歌を唄うことになっている。午後六時二十五分からは「基礎英語講座」。「基礎英語」は今でもあるから、随分と長寿番組ということになる。観月橋と二条大橋が鉄筋のものに架け替えられるという記事が「京都版」に載っている。
ここまで整理をしてきて、「物持ちの良い」父の通知表、卒業証書の類が発見されないのが、僕には不思議であった。(前日に、父の書いた絵と習字、それに「算術」のテストを発見していたのだが。)京都は空襲に遭っていないので、本人が残すつもりならば残っているはず。そして、僕はついに居間の棚の上で、その木箱を発見した。
一番上に僕の修士号の証書が入っており、その下に父の卒業証書と通知表が入っていた。ぼくの心が少し痛んだのは、父の卒業証書と通知表と一緒に、父のふたりの兄弟のものも入っているのを見つけたとき。父の兄弟、つまり僕の伯父、叔父に当たる人は、太平洋戦争中、フィリピンで亡くなっていた。父は戦死した兄弟の形見を守っていたのだ。
「お母さん、ついに発見。」
ふたりで、父の小学校の通知表を見る。ほぼ全部の課目が「甲」。
「これはすごく良い成績や。お父さんは優等生やで。」
と継母。
「でも、体操と図画だけは『乙』や。」
生前の父を思い出し、これにはふたりでまたまた大笑い。
次に手紙の整理をした。過去十年で父に一番沢山手紙を書いたのは、何と従姉妹のサチコだった。二番が金沢の義母。筆不精の僕は三番め。僕はその夜、父に一番沢山手紙を書いてくれたサチコに感謝の電話を架けた。