日本へ
水仙の咲き乱れるロンドンを後にして日本へ向かう。
三月の中旬を過ぎても、父は最後の頑張りをみせていた。妻と僕は週に二度、京都の継母に電話をし、様子を聞いていた。父の容態は一進一退。
「お父ちゃん、ひょっとして、このまままた何ヶ月も生きはるんと違う?」
と妻と話すこともあった。父が頑張っていることは嬉しいことだが、電話で話していて、継母が疲れてきているのが痛いほど分かった。僕にはそちらの方が心配だった。
しかし、そんな妙に現実感のない「待つ生活」にも終わりが告げられた。三月二十二日の午後九時、姉よりのメールで父の死を知った。階段を転げ下りながら僕は妻に叫んだ。
「お父ちゃん、死なはった。」
三月二十四日の朝、関西空港に着いた僕は「MKスカイゲート便」の乗り場で、次の京都行きのマイクロバスを待っていた。
「ハロー、ダディ」
という声で振り向くと息子のワタルが立っている。現在中国の北京に住む彼も、「お祖父ちゃん死す」の知らせを受けて、関西空港に着いたばかりだった。僕は到着案内を見上げる。
「あれ、北京からの飛行機って着いてたっけ。」
「ソウル経由で帰ってきたの。ソウルで九時間待ち時間があったし、昨夜は空港のベンチで寝た。」
と彼は言った。彼も結構大変な旅だったんだ。
僕自身、父の死の知らせを受けてから十二時間以内に飛行機に乗れ、父の死の翌日に関西空港に着くことができたのは、とてもラッキーだったと思う。
覚悟はしていたというものの、姉からの知らせを受けたときはちょっと動転をし、次に何をしてよいのか分からなかった。とりあえず、上司のTさんとアンディに電話を入れて、明日からしばらく休む旨を連絡する。
次に、息子にメール、娘たちに電話。ミドリに電話したが、彼女の携帯につながらない。彼女の寮の人間に伝言を頼む。そうしたら五分後にミドリから電話がかかってきた。寮長のゴードンも、お父さんが亡くなってスコットランドに帰っているという。何たる偶然。
復活祭休みでロンドンに戻っていた末娘も、慌てて外出先から戻って来た。
「ダディ、元気出してね。」
とハグとキスをしてくれる。この辺りが外国で育った娘らしい。スミレは荷造りを手伝ってくれた。実際にロンドンから旅立つのは僕だけである。
次は飛行機の切符の手配。インターネットで予約はできたが、確認が来ない。十二時に眠る。三時ごろに目が覚め、念のためにメールを見てみるが、確認のメールはまだ来ていない。前の会社にキャンセルのメールを打ち、新たに切符を探す。出発の数時間前の切符が手に入るかどうか分からないが。幸いにして、その日のアムステルダム経由関空行の飛行機が取れた。そのまま朝まで起きていて、妻と一緒に六時半に家を出る。