「それでも人生にイエスと言う」
…troztdem Ja zum Leben Sagen
ヴィクトール・フランクル
Viktor E. Frankl(1905‐1997)
1946年
私がこの本を読んでみようと思ったのは、その奇妙なタイトルによる。「点点点」で始まる題名に何故か心を惹かれた。このタイトルは、フリッツ・レーナー・ベーダ(Fritz Löhner-Beda)の「ブナの森の歌」(Buchenwaldlied)から取られている。原作では「点点点」の代わりに、「我々は望む」(Wir wollen)という言葉で始まっている。
ナチスドイツ時代、アウシュヴィッツの強制収容所に入ったユダヤ人の精神科医の語る体験談である。作者のヴィクトール・E・フランクルは一九〇五年ウィーンに生まれ、一九四二年両親と妻と共にテレジエンシュタットのユダヤ人ゲットーに移住させられている。そこで父を亡くした後、彼らは一九四四年の秋、アウシュヴィッツに搬送され、母親は即ガス室送りとなり、妻も収容所で死亡。ヴィクトールだけが生き残り、翌年の春にアメリカ軍により解放され、ウィーンに戻ることができた。
フランクルは精神科医であるが、収容所の中では、最後の数週間を除き、医者としては活動していない。一肉体労働者として苛酷な労働に従事しながら、精神科医としての目で、周囲の人々を観察している。一緒に収容された人々が次々と死んでいく中、生きて収容所を出られた彼は、非常に運の良い人物であると言える。そして、それは幾つかの幸運によるものである。まず、収容所での生活が半年足らずと短かったこと、次に、収容所内で何人かの協力者を得たこと、また、数週間ではあるが医者として活動でき、他の収容者よりは恵まれた環境であったことなどが挙げられる。しかし、そんな幸運な彼も、一緒にアウシュヴィッツに着いた母や妻と、生きて再会することはできなかった。彼はその後再婚、ウィーン大学の教授として教鞭を取る傍ら、米国の大学に何度も招かれ、そこで講義をしている。
「それでも人生にイエスと言う」は精神科医として強制収容所の看守や囚人を観察した記録である。自らも極限状態にありながら、実に冷静に周囲を観察するフランクルの観察眼に、私は驚かずにはいられない。 これまで、強制収容所を舞台にした本や映画に出会ったが、これほど、冷静に語られた記録は見たことがない。極限状態で、人間はどのように感じ、どのような行動をするのかを知る上で、非常に興味深い一冊であった。
フランクルによると、収容所での「囚人」の心理状態は以下の三段階に分けられるという。(フランクルはHäftling、「拘束された人、囚人」という表現を使っているのでそのまま使うことにする。)
@ 到着時
A 生活時
B 解放時
到着時の心理状態は「ショック」という一言に集約されるという。貨車に詰め込まれた人々に、行き先は告げられていない。列車が「どこか」に着き、貨車から降ろされたとき、誰かが「アウシュヴィッツ」という標識を発見する。当時、ユダヤ人の間では、既に「アウシュヴィッツに送られること」イコール「死」という「式」が定着していた。自分達がどこに着いたか知ったとき、人々はまず強烈な衝撃に曝される。到着後にまず行われるのは「セレクション」(選別)である。SS(ナチス親衛隊)のメンバーのわずかな人差し指の動きで、人々は右と左に分けられていく。そして、その選別を通り抜けバラックに着いた人々は、例えばそれが右側だったとすると、左側に送られた人間がすぐに「風呂場」、つまりガス室に送られ、殺されたという運命を知る。その選別を潜り抜けた人々の更なるショックは、私有物との決別である。彼らはベルト、眼鏡、靴を除いて、全ての物を取り上げられる。そして体中の毛を剃られる。そして、最後に本当の「風呂場」に連れて行かれ、わずかな水のシャワーを浴びるのである。
人々が収容所で生活を始めて次に襲われる感情は「Apathie」つまり「無感情」であるという。収容所内では「名前」というものは存在しない。全てが刺青されたり、衣服に縫い付けられた「囚人番号」で行われる。ちなみにフランクルの番号は「一一九一〇四」であった。そして、収容所内でも、常に「選別」が続いている。病気の者、弱った者は容赦なくガス室に送られる。また、劣悪な生活環境と栄養不足のため、次々と仲間が死んでいく。(誰が次に死ぬかを、皆が正確に予測できたという。)そのような状態で更に生きていくために「無感情」であることは極めて重要であるとフランクルは述べる。収容所のバッラクでは、狭い板のベッドに、数人が折り重なるように眠る。しかし、これまでいくら不眠に悩んだ者も、収容所ではベッドに入るや否や、泥のように眠り込んでしまうという。また収容所では看守やSSによる「いじめ」が横行している。そのような全ての「非合理性」に対する怒りは「無感情」によってのみ抑えられる。「無感情」、「無関心」であったからこそ、その中で身を守れたのだとフランクルは言う。
フランクルの語る、解放時の囚人たちの反応は大変興味深い。米軍により、収容所が解放され、
「おまえたちはもう自由だ。」
と言われたとき、囚人の中に、歓声を上げたり、喜びの表情を浮かべた者はいなかったという。「喜び」を表すということにも、ある程度「訓練」が必要だとフランクルは述べる。収容所生活により、人々は「喜び」という感情があることさえ、忘れてしまっていたのだ。このことに、私は少なからずショックを受けた。
フランクルによると収容所内は「常識」の通用しない世界だという。医学的な常識でさえも。例えば、「人間は何時間眠らなければ死ぬ」とか「土がついたままの傷口を放っておけば化膿すると」とか。フランクルは実際、そんな常識を超えたことを見聞きし、自らも体験した。極限状態になったときの、人間の適応力の強さに、私は驚かざるを得ない。
そのような極限状態の中に置かれて、人々は宗教に走り、神に頼るのかと思ってしまう。しかし、フランクルによると、政治的、文化的、宗教的な興味は、「冬眠状態」に入ってしまうという。人間は「政治的な動物である」と言う人もいるし、「宗教は困ったとき人間の心の拠り所である」と考えがちである。しかし、政治、文化、宗教などは、ある程度「衣食が足りて」心に余裕のあるときに、初めて存在し得るものらしい。
フランクルは収容所内での精神状態を「内への逃避」と表現している。全ての感情を押し殺し、内部に閉じこもる。フランクルは述べる。「センチメンタルな気持ちを一切持たないこと」も典型的な反応だと彼は言う。
「もし、妻が死んでいることを知っていたら、凍った土にツルハシやシャベルを振るう仕事に、果たして耐えられていたかどうか。」
また、常に団体行動で全くプライバシーのない生活で、人々が憧れていたことは「孤独になること」であったという。しかし、そのような中でも人々は「夢」を見た。そして、歌などの「ささやかな娯楽」で心を慰めた。外での作業の際、休憩時間に歌を唄い、皆を慰めた男に対して、皆がスープを底からすくうことを認めた(底の方には豆やジャガイモなどの具が沈んでいる)というエピソードには心が痛み、そして心が和む。
この本のオーディオブックの最後に、一九八八年、ヒトラーによるオーストリア占領五十周年の式典での、フランクル自身の演説が入っていた。その演説の中で、彼は、
「過去を振り返り、自分は、その時の社会体制は憎むが、ひとりひとりの人間は憎まない。」
と述べている。彼がそれを述べたとき、多くの人が拍手をしていた。私はそれを聴いて、「それでも人生にイエスと言う」を別の言葉で表現したら、こうなるのかと思った。
この本を読んでいるとき、私は精神的にどん底の状態にいた。最初、余りにも暗い内容に、今この本を読むのは最悪かなとも思った。しかし、私は「憎悪」は最大のストレスであり、「人を憎む」ことからは何も生まれてこないことをこの本から学んだ。フランクルの他の作品を日本語に翻訳された女性に、数週間前京都でお会いする機会があった。彼女と「生きる意味」について話すことは、自分の気持ちを整理する意味で大変役に立った。これもフランクル博士の「お導き」なのかと思う。
(2013年4月)