第五章:ラスト・オーダー、ラーソン現象
記録的な売り上げと、それが著者の死後の成功であったという点を除いても、また、その作品の評価が、最初考えられていたような犯罪小説というよりも、ブロックバスター的なスリラーであったとしても、また、当時世界で一番の販売部数を誇った作家によって屈折させられた形であるにしても、ラーソンの作品の中に、極右と過激派組織の活動が検証されていることを認識するのは可能である。二〇〇四年、五十歳で死ぬ前までに、彼は三部作の犯罪小説を書いた。二〇〇五年にスウェーデンで、二〇〇八年に英国で出版された第一作の「ドラゴン・タトゥーの女」は、売り上げの記録を毎週更新し続けた。ラーソンが国家を挙げての腐敗を描くことにより、「スウェーデンの夢」を葬り去るための棺に、最後の釘が打たれたことに対する、スウェーデン人の複雑な反応を理解することは、有益だと思われる。
「ヒーロー」という称号に値する犯罪小説作家はほとんどいないが、ラーソンはそれに値する。彼は死ぬ前に、これまで最も野心的な三冊の犯罪/スリラー小説を書いた。「ドラゴン・タトゥーの女」は、それに比べればはるかに劣る「ダ・ヴィンチ・コード」に続いて、世界中で最もよく読まれたスリラーであると言える。戦うジャーナリストとして、ラーソンは、ネオナチ組織に関する痛烈な分析を発表することにより、極右の過激派グループについての権威者の座を欲しいままにしていた。前衛となった戦うラーソンの姿勢は、自身を直接的な危険に誘うことになるのだが、それは政治的なものだけではなく個人的なものでもあった。彼はまた弱者のグループを見つけ、彼らを助けようとした。ラーソンは特に、中東のイスラム原理主義者の政権下で、厳しい仕打ちを受けている女性に注目した。しかし、犯罪小説からSFに至るまで、書くことに魅せられていたラーソンは、もうひとつの夢があった。彼は戦闘的なジャーナリズムから離れた、「別の分野」に着手したいと思っていたのだ。彼のプロジェクトである、大きなカンバスに描かれた野心的な国家レベルの小説は、彼をベストセラー作家に押し上げることになる。しかし、ラーソンの画期的な到達点は、他の犯罪小説の作家の垂涎の的となる主人公を造り上げたことによる。前例のないコンピューターの天才リズベト・サランダーは、彼女自身の私生活も褒められたものでないにしても、それまでの流行であった、「破滅的な私生活を持つアルコール漬けの中年男」という探偵のイメージからかけ離れていた。彼女は社会的に虐げられた若い女性であり、自分の甲羅の中に閉じこもっている。死神のメーキャップをし、身体中に刺青とピアスをするなど、世間に対して反社会的な傾向を見せている。しかし、その外観は見せかけに過ぎない。あるレベル以上の社会的な交際を除いては、彼女は社会との交流から身を引いているわけではない。彼女は、高度な知能と、日常生活の外側から、人間の行動の深層を分析する能力を持っている。ラーソンは他人から好かれない彼女の性格を、より読者に近い別の人間と対照させている、それは信用を失った、四十年前に起こった一連の殺人事件を再調査しようとしている、中年のジャーナリストである。サランダーは、最初はジャーナリストのためにコンピューターのハッキングを専門とするアシスタントであったが、社会的に影響のあるヴァンガー家の暗い過去を調べていくにつれて、ふたりは対等の立場となる。一方、サランダーは自分を虐待した社会のシステムに対して復讐を開始する。この役割の変化が、この本の象徴的な斬新さだと思われる。
これは政治的な小説なのか。スウェーデンの現代社会にメスをいれるものなのか。西側社会の二重構造と政府の腐敗の分析なのか。「ドラゴン・タトゥーの女」は既成のジャンルを混乱させる本として、熱狂的に受け入れられた。その圧倒的な成功を著者自身が見ることができなかったことは、返す返す残念なことである。長大な小説の最初で、ラーソンは読者を試そうとしているように思われる。彼は非常に印象的な主人公たちを登場させる。一度その主人公を知ってしまうと、読者は小説から離れられなくなる。しかし、小説では最初に、金融詐欺について延々と述べられる。それに「ついて行けた」読者が初めて、ミカエル・ブロムクヴィストとリズベト・サランダーを巻き込んだ、迷路のようなストーリーの入り口にたどり着くことができる。ブロムクヴィストは危険な敵を相手に戦うジャーナリストである。(彼はラーソンの分身と言える。)それに対してサランダーは犯罪小説の世界では初めて現れる「新種」である。彼女は信用調査機関の所長から重用され、自分のパンクな容貌の中に調査のプロとしての能力を隠している。顔のピアス、奇抜な服装、ドラゴンの刺青。最初、訴訟に敗れ職を失ったブロムクヴィストも彼女の調査対象であった。自分に対するレポートがなされているのを知らず、ブロムクヴィストは何年も前に島から姿を消した姪を捜す人物に雇われる。当時、島は橋の上の事故により本土から隔離され、容疑者となる人々も世間から隔離された存在であった。ラーソンが、古典的な英国の「密室ミステリー」を読者に投げかけているとも取れる。しかし、読者はそんな予感が誤っていたことに気付く。続いて来るものは、読者が予期していたものより遥かに暗く、血に塗られたものなのである。ラーソンの作品群は、ドロシー・セイヤーズ(Dorothy Sayers、1893-1957英国の女性ミステリー作家,)的というより、トーマス・ハリス(Thomas Harris、1940-米国のサスペンス小説作家)的なものである。
ラーソンの小説は独創性に満ちている。例えば奇抜な服装をしたアンチ・ヒロインであるサランダー。彼女が求める情報を持った人間から避けられるのではないかと読者が心配するくらい、ラーソンは彼女を日常性から遠ざけている。サランダーには隠されたアイデンティティーがある。サランダーはまた、その横柄な、好戦的な態度にも関わらず、傷つきやすい、女性的な側面を持っている。この本のサブタイトルに「十八パーセントのスウェーデンの女性は男性から一度は暴力を受けている」と書かれているが、その事実をサランダーの存在が端的に表している。しかし、もしその示唆が本当なら、物語が描く手厳しい暴力や拷問が、「女性への性的な暴力を小説のネタに利用してるラーソンが、女性の価値を支持することができるのか」という議論を、払いのけることができる。
第二作の「火を弄ぶ女」(2006年スウェーデン出版、2009年英語訳)でも、前作に続きサランダーは、年上のジャーナリストミカエル・ブロムクヴィストと組んでいる。豊胸手術を受けた彼女は、周囲の人間との接触を全く絶っている。そして、そして三件の残虐な殺人事件の重要参考人として指名手配される。しかし、性的な目的での女性の人身売買の問題を扱っていたブロムクヴィストは、サランダーから男としては見捨てられながらも、彼女の無実を信じている。第一作と同じように、ラーソンはここでもスウェーデンの国家と警察の腐敗を描こうとしている。六百ページに及ぶ小説はもう少し整理できるかも知れないが、反抗的な、刺青をしたヒロインは、ここでも成功を収めている。
三部作の最後で、ラーソンは印象深いフィナーレに持ち込もうとしている。(ラーソンはこのシリーズを十冊書こうとしていたという意図は別にしても。)「スズメバチの巣を蹴った女」(2007年スウェーデン出版、2009年英語訳出版)では、読者が予想さえしていなかった方向へ物語が展開する。頭に銃弾を受けたサランダーは集中治療室に寝ている。その隣の部屋では、彼女を殺そうとして、逆に斧で切りつけられた父親がいる。彼女が快復すれば、父親が先に発砲したという事実が証明されない限り、彼女は殺人未遂罪に問われることになる。この小説は六百ページを一気に読ませる。今回サランダーが戦うのは極めて手強い相手である。恐ろしいロシア人の父、殺人を厭わない国家の秘密組織、保身のことしか頭にない政治家など。それらが彼女を抹殺しようとする。ラーソンの描く生々しい暴力シーンは、トーマス・ハリスのそれと比べると少しは穏やかであるとは言え、傷つき易いヒロインとは対照的な彼の小説の特徴となっている。このことが非常に野心的で、おそろしく詳細な三部作の、強い、挑戦的な結末なのである。読者は「サランダー伝説」にエンドマークが記されることを残念に思う。
ラーソンのジャーナリストとしての背景は、彼の作品を語る上で鍵となる。回顧録「スティーグ・ラーソン、我が友」の著者であるクルド・バスキ(Kurdo Baski)は、彼自身もその同僚のラーソンも、
「ジャーナリズムだけでは、社会を完全に表現するのに不十分である。」
と確信していたと述べる。バスキによると、
「他の形の表現方法が必要である。」
と常に考えていた彼らは、犯罪小説こそが、異なった国の社会的な緊張を描く、完璧な手段であることを見つけた。
「例えばスティーグは人種差別、女性差別、社会的な不正義などについて、新聞や雑誌に長い記事を書くことは許されなかった。それらの話題について十分に述べることが、ラーソンがミレニアム三部作を書いた理由だと考えられる。」
とバスキは述べている。
バスキは、北欧以外の読者は、現代の犯罪小説により、北欧に対しての洞察を深める機会を得ていると考えている。北欧の犯罪小説は、暴力や、虐げられた女性、広まりつつある人種差別が日常生活の一部であることを示している。
「犯罪笑殺は地上の楽園のように考えられている国にさえ、地獄のような箇所があるということを知らしめている。」
とバスキは述べる。
常に論議を醸しだす欧州における移民問題は、英国のように植民地を持たず、移民や亡命者がごく最近になって初めて社会の一部になったスウェーデンでは、英国とはまた違った反響を引き起こしている。バスキは述べる。更にバスキは、
「新しい多文化の社会を作る際において、住民は異文化の間に緊張が起こることは避けて通ることができない。そして、その緊張こそが、北欧の作家にとって、興味深く実りのある分野として取り上げられる。」
と述べている。