ヤクザ映画とミュージカル
「アルゼンチンよ泣かないで」メロディーがなかなか頭から離れない。
エヴァが「ブランド物」のファッションに次々と手を出す場面、彼女は何枚もの鏡の前で踊る。鏡が照明を観客席に反射している。次は、エヴァが夫の名代としてヨーロッパを訪れる場面、舞台の左側がヨーロッパでのエヴァ、右側がブエノスアイレスの夫という作りになっている。大統領の名代でヨーロッパを歴訪したものの、全然相手にされないで、自尊心の強い彼女は失意で帰国する。
「バッキンガム宮殿へも行けなかったし、女王とも会えなかった。」
彼女は残念そうに言う。彼女は農村を訪れ、村人たちに、自分の作った基金のアピールをする。しかし、そのような場面を通じて、彼女が徐々に病に犯される様子が描かれる。小さな女の子がエヴァの快復を祈る歌を唄う。死の床で、彼女はアルゼンチンに対する変わらぬ愛を歌う。
「あんな大きな声で歌が歌えるくらいやったら、まだまだ元気やん。」
と僕は思ったのだが、それがお芝居というもの。間もなく彼女は亡くなり、葬儀の場面、つまり最初の葬儀の場面に戻る。
つまり、いわゆるこの物語は最初と最初を同じ「枠」で囲んだ「枠構造」になっているのだ。この「枠構造」という言葉を僕は独文科の学生の頃、文学理論担当のクボタ助教授に習った。ドイツ語で、「枠構造を持った小説」のことを「ラーメン小説」という。これには笑った。ラーメン屋を舞台にした伊丹十三の「たんぽぽ」みたい。
カーテンコールがあり、俳優さんたちが舞台に勢揃い。観客は立ち上がり「スタンディング・オベーション」でエヴァを演じたマダレナ・アルベルトに拍手と喝采を送っている。
「結構面白かったよね。」
「うん良かった。」
そう言いながら、妻と娘と僕も立ち上がる。
「でも、あのチェって人、ちょっとウザくない。」
と僕が言うと、妻も同意をした。
観客が帰路につく。
「おそらく、八十五パーセントくらいの人が、家に帰り着くまで、『アルゼンチンよ泣かないで』のメロディーを口ずさんでいると思うよ。」
と僕は妻と娘に言う。高校生の頃、京都の祇園会館で「マイフェアレディー」の映画を見た。その後、外に出て歩き始めると、前を歩いている大学生風のお兄ちゃんが「踊り明かそう」を唄いながら歩いていた。
「好きなんだよなあ、映画やお芝居の世界にどっぷり浸る人って。」
「男はつらいよ」の映画を見た後、外に出ると、半分くらいの人が「寅さん」に歩き方になっているとか、東映のヤクザ映画を見た後、外に出ると、殆どの人が高倉健や鶴田浩二みたいな歩き方になっているとか。
劇場の外に出ると、雨は止み、青空が広がっていた。それから僕たちは韓国飯屋へ言って「ビビンバ」を食べた。僕は、家に着くまで、ずっと心の中で「アルゼンチンよ泣かないで」を歌っていた。
雨の止んだ劇場の前で。