千夜一夜勤物語
1001 Nachtschiten, Mordstorys am Flieβband
オスマン・エンギン
Osman Engin
(トルコ/ドイツ)
2010年
<はじめに>
作 者のオスマン・エンギンは、一九六〇年トルコ生まれ、一九七三年、十三歳のときにドイツ移住ということなので、おそらく、出稼ぎの両親に連れられてドイツ
にやってきたのであろう。彼は、テレビラジオなどで、風刺に満ちた作品を発表している。この物語は、「アラビアンナイト・千夜一夜物語」のパロディー。解 雇されかかったトルコ人労働者が、仕事の後、現場監督に毎日面白い話を聞かせることにより、「クビ」を免れようと試みる話である。果たして、シェーラザー
ドのように、試みは上手くいくのだろうか。
<ストーリー>
ドイツのブレーメンで働く「ガストアルバイター」(外国人労働者)のひとり、オスマン・エンギンはトルコ人。いや、厳密に言うと、既にドイツ国籍を取得しているので、もう「外国人」ではない。そんな人たちを、「移民を背景したドイツ国民」(Deutscher Bürger mit Migrationshntergrund)と正式には呼ぶらしいが。ともかく、多くのドイツ人は彼らのことを一括して単に「トルコ人」(Türke)呼び、彼の働いている工場では国籍に関わらず「外国人労働者」として、待遇面でも賃金でも低く扱われている。
オ スマン・エンギンは二十五年前、トルコの農村からブレーメンの町へ「ガストアルバイター」としてやってきた。それ以来、彼は某工場の「ハレ四」の建屋で、
ベルトコンベアに流れる製品の組立工として働いている。オスマンにはエミナニムという名の妻と、ふたりの息子、まだ小さい娘がいる。ひとりの息子は独立し ているが、真ん中の息子は「万年学生」の「共産主義者」、家でゴロゴロしている。オスマンは八歳のおませな娘、ハティスに手を焼きながらも彼女を可愛い
がっている。
六 月のある日、「ハレ四」で、彼を初め、三十人のトルコ人従業員が解雇されることになった。その理由は「中国製品の流入によるマーケットシェア」の低下であ
るという。現場監督のドイツ人、マイスター・フイアトライバー(「家畜追い立て人」という意味)は、解雇対象の従業員ひとりひとりを自分の部屋に呼び、 「解雇通知」を渡していく。
い よいよオスマンが呼ばれる番になった。現状の経済状態、五十歳を過ぎた彼の年齢から考えると、再就職は極めて困難であることが予想される。解雇は「ハレ
四」から「ハーツ四(ハーツ・フィア)」への移行を意味している。「ハーツ・フィア」というのは、数面前にドイツで導入された制度。もし、失業後一年間再 就職できなかった場合は、失業手当は大幅に削られ、家族を持つ人間でなくても、路頭に迷ってしまうという状態である。
オスマンは、自分の解雇通知を手にした現場監督に、週末にあった出来事を語り始める。その話により、現場監督の気を解雇通知から逸らし、彼の解雇を遅らせようという、藁にもすがる思いからであった。
彼 と妻はフランクフルトの親戚の家に遊びに行くために前週の土曜日にブレーメンを出発した。途中ルール地方まで来たとき、高速道路で車が故障、修理に手間取
り、車が再び走り出したときには真夜中過ぎになっていた。オスマンはかつての同僚がシュベルトという近くの町に住んでいることを思い出し、ホテルに泊まろ うと言い張る妻をなだめすかし、夜半過ぎ、泊めて貰うために元同僚の家を訪れる。しかし、鍵の掛かっていない玄関を入ると、ひとりの若い女性が、花瓶で頭
を叩き割られて死んでいた。
オスマンの予想通り、現場監督のフイアトライバーは、この殺人事件の話に興味を示す。上司が解雇通知のことを忘れている瞬間を見計らい、
「あっ、バスの時間だ。これで失礼します。続きはまた明日。」
そう言って、オスマンは現場監督の元を走り去る。話に聞き入っていた現場監督は、オスマンの作戦にまんまと引っかかり、彼に解雇通知を渡すのを忘れてしまったのだ。オスマンの首は少なくとも翌日までつながったのであった。
もし、オスマンが「クビ」になれば、彼を待っているのは「ハーツ・フィア」、一年間の失業保険の後に来る、「死ぬには十分だが、生きていくには不十分な」
状態である。彼は、家族を連れて路頭に迷ってしまうのだ。彼が会社で生き残れるよう、普段は夫を「役立たず」と罵り、「粗大ゴミ」のように扱う妻のエミナ ニムも彼に全面的に協力することを約束する。
翌日も、オスマンは退社の翌日に現場監督のフイアトライバーに呼ばれる。現場監督は話の続きを、殺人事件の顛末を聴きたくて仕方がないのだ。オスマンは、
死体を発見した後、警察に連絡したが、警察が翌朝まで来なかったこと、死体が妻と一緒にブレーメンでヨガをやっていたインゲのものであること。そして、 やっとやってきた警察のリュック警視に、沙汰のあるまで街を離れるなと言われたことを話す。そして、警察から拷問を受けたことをほのめかす。「警察」、
「拷問」その言葉にフイアトライバーは色めき立つ。
「あれっ、またバスの時間です。もう帰らなくてはいけないので、続きはまた明日。」
そう言って、オスマンは上司の部屋を飛び出す。今日も現場監督に、解雇通知を渡す隙を与えずに。彼の「クビ」はまた一日延びたのである。
オ スマンはこのまま、ずれ夏枯れシーズンの終わる六月の末まで、上司に「面白い話」をして「クビ」を延ばしていけば、解雇が撤回されるのではないかという胸
算用をする。それで、「千夜一夜物語」のシェーラザードよろしく、退社の直前に、上司が夢中になるような話をすることになる。妻のエミナニムも彼に協力 し、毎日上司のフイアトライバーが喜ぶようなトルコ料理を準備する。その料理を食べながら、現場監督は毎日オスマンからの話を聞くことになる。
しかし、若い女性の殺人事件は未解決のまま進展がない。相手に解雇通知を忘れさせるほどの面白い話が、そうそう転がっているわけではない。間もなく、殺人事件の「ネタ」は切れる。
「殺 人事件」をうやむやのうちに終わらせたオスマンは、自分がドイツにやってきた頃の失敗談に話題を移す。健康診断のときに、「健康なおしっこ」を売る男から
小便を買って尿検査に合格した話とか、ドイツに引っ越してきた早々、家財道具の信販会社のセールスマンを隣人だと思ってご馳走したことなど。また、隣人の トルコ人でドイツ人の若い女性に人気のある、スレイマン・エフェンディと張り合ったことなど。スレイマンの真似をして、オスマンとその家族は粗大ゴミ置き
場から、ソファやテレビや他の電化製品を集めてくる。そして、あたかも自分たちは金持ちで、耐久消費算を次々と買い換えているように見せるために、それら を窓から放り出す。
「そして、そのとき、ドイツ人の若い女性の悲鳴が下で聞こえた・・・」
現場監督は身を乗り出す。しかし、オスマンは、いよいよ佳境というところまで話しては、バスの時間を理由に現場監督の部屋を立ち去る。安物のソープオペラのように次回に対する期待を残しながら、そそくさと。
し かし、いよいよ、彼の話も本当にネタ切れなってきた。彼の話は実話から、次第に作り話に変わっていく。まだ、六月末までは一週間以上ある。妻の美味しい料
理で、何とか拙い話をカバーしているものの、彼は「千夜一夜物語」のシェーラザードのように、連日王の歓心を買い、最後には「処刑」を逃れることができる のであろうか・・・
<感想など>
この話、ふたつの部分から成り立っている。ひとつはオスマンが現場監督に話す、「馬鹿馬鹿しくもついつい聞いてしまいたくなる話」、そして、もうひとつはその後に来るドイツに住むトルコ人の生活にまつわるエピソードである。
連続テレビドラマ等では、番組終了間際に新たな事件が起こり、視聴者の興味をそそっておくという(センセーショナルな音楽と共に)手法が日常的に使われる。実際、次回、続きが始まると、実際それは取るに足らない出来事であり、
「それがどうだったの。」
と馬鹿にされたような気分になることも多い。そして、視聴者はその手法を知っていながらも、毎回騙されてしまう。オスマンが模倣しているのは、アラビアンナイトの昔に発明され、現代テレビドラマに踏襲されたまさにこの手法。
「それから、警察で私はひどい『拷問』を受けたんです。あっ、時間です。もう帰ります。」
聞き手は、その「拷問」への興味を喚起されたまま、宙ぶらりんの状態で放置される。ところが翌日、オスマンは翌日、その「拷問」について語る様子がない。聞き手が問い質すと、
「警察での飯の不味いこと、あれでは一種の『拷問』です。」
の一言で片付けてしまう。
ド イツには、数多くのトルコ人が暮らしている。何百万人という数になると思う。彼らは、戦後の高度成長期に「ガストアルバイター」として、鉱工業に従事する
ため、トルコから移ってきた世代と、その次の世代である。「ガスト」は英語で言うと「ゲスト」、つまり「お客様」なのである。しかし、実態はその文化の違 いもあり、多くのドイツ人はトルコ人のことをよく思っていない。まして、最近のように、失業者が増えた社会では、トルコ人がドイツ人の職場を奪っていると
考える人も多く、一時期、「外国人は出て行け!」(Ausländer raus!)という落書きが、あちらこちらで見られた。この物語のように、会社や工場の経営状態が悪くなると、最初に「クビ」を言い渡されるのが、トルコ人をはじめとする外国人労働者なのである。
日本で言う、在日韓国人、在日朝鮮人とかなり近いと考えてよいであろう。同じようにドイツや日本の生活に深く根ざしていて、しかも同様にドイツ人社会や日本人社会からは浮き上がっている人々なのである。
そ して、数年間から、「ハーツ・フィア」という失業者に対する法律が実施された。ドイツ政府は失業してから、一年経ってもまだ再就職できない者に対する失業
保険を、大幅にカットしたのである。その金額は、とても家族を持つ者にとっては、家族を養っていけるものでなく、「ハーツ・フィア」イコール「路頭に迷 う」と考えてもよい。この物語のオスマンも「夜伽話」と「ご馳走」により何とか解雇を遅らせながら、せっせと「ジョブセンター」つまり職業安定所に通うこ
とになる。しかし、職安も同じような境遇のトルコ人で一杯、担当の職員に会うことさえ、ままならないのである。
そんな「綱渡り」状態の中で、笑えるエピソードが満載されている。作者自身がトルコ人だが、彼はトルコ人だけではなく、ドイツ人の習慣、行動、風習、考え方も、笑いの対象としている。
トルコ人には、ケルンの酒場で妻と一緒にビールを飲んでいるときに奢ってもらった。対日感情は結構良かったように記憶している。ドイツのナショナルチームの中にも、トルコ人やポーランド人の二世の選手が混ざり始めた。しかし、まだまだトルコ人とドイツ人の間の壁は高い。
先 に述べたように、ドイツ人側もトルコ人側も描かれているが、どちらもかなりデフォルメされている。例えば「犬の糞事件」。オスマンの住むアパートの階段の
踊り場に大量の犬の糞がばら撒かれていた。そこはオスマンの部屋の前。ある住人がオスマンに片付けることは要求する。しかし、オスマンはその糞はその住人 の犬のものであると言い張り片付けることを拒否する。その間、犬の糞を踏んづける住人が続出し大問題となり、ある日、その対策を話し合うために、「アパー
ト住人集会」が開かれる。そこで議論が百出し、結局集会は「継続審議」となる。しかし、その間、協力して階段を掃除しようという意見はでない。これは極め てドイツ人的と言える。この本は、両方の文化を熟知している者だけが書ける作品と言える。
夫 かがコンピューターに疎く、妻がコンピューターやインターネットを使いこなしているという図式にも、ありきたりではあるが、それなりに笑わされる。妻は、
「ジョブセンター」、日本でいう「ハローワーク」の担当者の趣味をフェイスブックで詳細に調べ上げ、その担当者に子供の産まれた翌日、その担当者の好みに あった服装で、夫をセンターに送り出す。そして、そこで待ち構えていたものは、荒れ狂う担当者であった。彼は前日「五つ子」の父となったのであった。
描かれる人間、エピソードが極めて「ステレオタイプ」であるが、それゆえに笑わせるという物語である。
(2011年11月)