大文字

 

南向きの明るい部屋で、やっと仕事も再開。でも、何時までここに居るんだろう。

 

「わあ、大文字(だいもんじ)が見える。大文字の日、ここへ見に来るわ。」

とバルコニーに立ったGさんが言った。僕たちは、僕の住むことなったアパートに、僕の荷物を運びこんだところだった。僕が借りたアパートは、四階で、南向き、見晴らしが良くて、Gさんの言うように、大文字山が見えた。エレベーターがなく、階段だけ。僕とGさんは、僕の二つのスーツケースを四階まで階段で運び上げた。Gさんは二週間前にギックリ腰をやり、僕も心臓の治療のために日本へ来たくらいだから、無理が利かない。

「きついなあ。」

三階まで上がったとき、二人共、かなりバテていた。部屋は五〇七号室なので多分五階。

「もう後二階、運ぶのかいな、堪忍してえな。」

と言いながら、何とか階段を昇ると、いきなり五階だった。「四」という数字を忌み嫌う日本の伝統に救われた感じ。「大文字を見に来る」というのはGさん独特のジョーク。僕は一カ月の契約で、その「マンスリーマンション」を借りたのだった。大文字、「五山の送り火」は八月十六日。いくら何でも、それまではここに居ない。

最初、Gさんの離れで二週間の自主隔離を終えた後、母の家に向かうはずだった。しかし、九十歳近い母の年齢を考えると、一緒に住まない方がよいのではということになり、僕はGさんの家と母の家の両方から歩いて十分くらいのところにある、ワンルームのアパートを借りたのだった。母と二人で住むと、コロナ感染の可能性も理論的には二倍になる。三回のPCR検査と、二週間の隔離で、僕は自分が百パーセント安全な人間だと確信していた。しかし、もし、母に何かあった場合、スケープゴートにされるのも嫌だった。Gさんの離れで、最後の三日間、僕はインターネットを使って、物件を見つけ、契約をした。契約書の交換も、支払いも、全てスマホで出来てしまうのが、今風である。鍵は、部屋のドアのノブに、番号合わせ箱に入れられていた。

関空に着いてから、きっかり十四日後の、一月十八日の朝九時。僕は、Gさんの家を出た。風は冷たいが、天気は良い。その日は早起きして、離れを掃除し、使ったシーツなどを洗濯して、干した。Gさんが荷物を運ぶのを手伝ってくれるという。有難い。

一緒に荷物を運んでくれたGさんが去る。僕は彼に礼を言った。一人になった僕はつぶやいた。

「エアコンとワイファイのある生活って素晴らしい!」

僕は正直ホッとしていた。

「トイレまで三メートルというのも素晴らしい!」

Gさんの離れから、母屋のトイレまで、庭を歩いて二十メートル。寒い夜など、これは結構辛いものがあった。僕は、トイレットペーパーや、その他必要な物を買いに出かけた。二週間ぶりの、「合法」な外出だった。

「自由って素晴らしい!」