さらばヴェンチューラ
確かに、マユミは船上の社交ダンスのスターだった。
昼過ぎに船に戻ると乗客の下船が始まっていた。下船というのを英語で「ディスエンバケーション」と言うことを、僕はその日初めて知った。この日、バルバドス島で降りた乗客は、五機の飛行機で英国に戻る。それぞれの飛行機が違う時間に出るので、下船の時間も少しずつずれている。僕達の乗るロンドン・ガトウィック行きは一番遅い便だ。
桟橋で、ヴェンチューラから降りてきた、社交ダンス・インストラクターの夫婦、キャロルとブライアンに会う。彼等も大きな荷物を持っている。役目を果たして、英国に戻るのだ。マユミは二人と頬ずりとキスをして別れを惜しんでいる。
「一緒に踊ってくれてありがとう。」
と、良い「パートナー」だった、ブライアンとマユミは互いに言った。
「英国へ戻っても、練習を続けてね。」
と、キャロルが僕に頬ずりをしながら言った。出来るかな。帰ったら、仕事やピアノの練習で結構忙しいし。それに最近地元の「美術クラブ」にも入ったし。
昼食を済ませ、上部甲板のプールサイドに行き、最後の日光浴をして下船までの時間を過ごす。ロンドンへ戻ると寒くて暗い天気。次に日光浴のできるのは、半年先になる。
夕食で一緒のマルコムが独りでビールを飲んでいる。彼の乗るマンチェスター行きの飛行機が遅れているらしい。遅れの案内のための放送が入ったときは面白かった。皆が拍手をし、歓声を上げたのだ。
「これで二時間長くカリブ海にいられる!」
飛行機の遅れの放送に、乗客が喜んだのを初めて見た。
午後四時、いよいよ僕達の下船の時間になった。預けておいた手荷物を取り、乗船者カードを渡して、桟橋でバスに乗る。桟橋から最後にヴェンチューラを見上げた。何度見てもでかい船だ。この船、これから来年の春にサウスハンプトンに戻るまで、次々と新しい客を乗せて三ヵ月の間カリブ海を走り回ることになる。カリブ海の観光シーズンは、比較的雨の少ない北半球の晩秋から初春にかけてだという。
バルバドス空港まで交通渋滞がひどく一時間半近くかかった。バルバドス空港は、何と屋根があるけど壁がない。暖かい土地なので、屋根さえ作ってしまえば、壁は必要ないと言えば必要ない。既に出国手続きを済ませていた僕達は、カードを渡しただけで、あっさりと空港の中に入る。飛行機を待つ間、今回の旅の「成果」について妻と僕は話し合う。
「やっぱり、船で大西洋を渡ったこと。これは何と言っても『一生に一度』の経験だよな。海は広いというのが分かった。」
「カリブ海で泳げたのもよかったわ。こんな暖かい海は初めて。色もすごくきれい。」
「それと、社交ダンスを習ったこと。あんたがいかに社交ダンスが上手か分かったこと。確かにあんたは船の中では『スター』だった。」
「でも、ロンドンに戻って、社交ダンスまでやるって、絶対に言わないでね。」
妻はそう言って僕の顔を見た。
またクルーズに来て、こんなシーンに出会うことはあるかな。微妙なところだ。
<了>