風よ穏やかに

 

周囲は三百六十度海ばかり、海から太陽が昇り、海へ沈む。

 

昼食の後、と言っても妻だけで僕は食べなかったが、夜に備えて少し昼寝をする。夕食の前にデッキに出てみる。

「わあ、風が柔らかい。」

妻と同時に叫ぶ。南に進んでいるせいか、肌に当たる風が暖かく感じられるようになった。まだ、デッキチェアに寝ている人はいないけれど。海も穏やか。モーツアルトのオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の中の三重唱、「風よ穏やかに」を口ずさむ。相変わらず三百六十度海以外に何も見えない。船の進行方向の右前に、夕日が沈んで行く。

夕食、昨日いなかった一組が復帰。昨夜はダンナの方が船酔いで調子が悪かったという。彼等の名がマルコムとジェニファーだということを知る。僕が犬を飼っているという話から、犬の話題になる。マルコム夫婦は犬を五匹も飼っているという。本当に英国人は犬好き。犬の自慢話に花が咲く。

「今回の船の揺れ方は、普段に比べてどうなんですか?」

と、僕はこれまで気になっていたことをマルコムに聞いてみた。これまで三度、大西洋を船で渡ったことのある彼は、

「今回は、これまでの航海のなかでは、穏やかな部類ですよ。」

と言った。嵐や低気圧に遭遇し、もっと揺れたこともあったという。そんな穏やかな海でも、彼は船酔いだった。僕もここ二、三日、何となく常に吐き気がして、気分が悪い。

夕食の後、社交ダンスをやっているナイトクラブへ行く。マユミが何度も踊る。僕が相手をできないので、ダンスクラブの男の先生のブライアンや、船員に何度も相手をしてもらっている。マユミが言っていたように、確かに、メチャクチャ上手いカップルが一組いる。しかし、どんな音楽でも踊れてしまうマユミもここではスターである。僕も今日覚えたばかりの「チャチャチャ」を無謀にも試してみたかったのだが、結局かからなかった。

劇場へ行く。今日はジミー・ジェームスという人の歌。人気があるのか、席は全部埋まっており、僕らは通路の階段に腰を掛けた。小太りの黒人の中年の男性が、黒いスーツを着て舞台に現れる。この人はすごく良かった。歌唱力もともかく、観客の心を捉える暖かさ、人懐こさがあった。英国に帰ったら、この人のCDを買おうと思う。最後の曲が終わった後は、スタンディングオベーション、舞台の下からの握手を求める人々が絶えなかった。

僕はこれまで、黒人歌手の歌う、ソウル・ミュージックなど一度も聞いたことがなかった。しかし、なかなか「暖かみ」のあるものだと思った。昔、ハックニーでレースを走ったことを思い出す。オリンピック後変わったかもしれないが、東ロンドンのハックニーは、当時黒人が多く住み、当時余り治安の良くない地域だった。そこで十マイルだかのレースを走った。当然、観客やマーシャルの人々は黒人が多い。しかし、そこでの声援が、英国のどのレースより暖かいものだったような気がする。

 

初心者のダンナに代わり、マユミのダンスのお相手を務めてくれた、インストラクターのブライアン。

 

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