左足が二本ある人々
結構お年を召した方もダンスはお上手。
午前十時、ナイトクラブ「ハバナ」では、ステージの前の椅子を脇に押しやって作った空間で、三十人くらいの人々が「ラインダンス」を踊っていた。老若男女と言いたいが、九十パーセントは女性、そのうちの九十パーセントは六十歳を越えている。インストラクターはポニーテールにショートパンツの女性、生徒たちの孫の年代である。彼女は、
「ライト、レフト、ライト、レフト、ヒール、トー、タップタップ。」
などと言いながら前のステージで手本を示している。おばさんたちも結構それに付いていっている。
マユミと僕も参加する。マユミは普段からダンスクラブに入っていて、一週間に四、五回は練習しているので、飲み込みが格段に早い。僕はこれまでダンスとは全く縁のない人生を送ってきた。素人に即興で教えるダンスなのだから、振り付けはそれほど難しいものではないように思えるのだが、やってみるとなかなか手強い。
末娘のスミレは幼稚園の頃からダンスをやっている。彼女は、一度振り付けを見ただけで、いとも簡単にそれを真似てしまう。あれはすごい才能、あるいは訓練の賜物なのだと思った。ゆっくりと揺れる船の上なので、バランスを取るのが難しい。結構汗をかく。
ラインダンスのクラスの後は、社交ダンスのクラス。今日のテーマは「ワルツ」だ。このクラスは、男性と女性がほぼ半々である。僕のように、奥さんに連れられて仕方なくやってきたという感じの男性が多いようだ。小柄なインド系の奥さんと一緒に来ているご主人は、
「かみさんはダンスが好きだけど、俺は左足が二本あるんでね。」
と言っている。「左手が二本ある、左足が二本ある」、これは英語で「不器用だ」という意味なのだ。別の男性は、
「オレ、これまでクルーズの度に何度も習ったけど、すぐ忘れちゃうんだよね。」
とぼやいている。それでも、僕のように、奥さんに尻を引っ叩かれて来ている。
「ワルツ」のレッスンが始まる。インストラクターは中年の男女である。余りにも初心者向けなので、妻は物足らなそうな顔をしている。言ってみれば簡単なステップなのだが、それがなかなかできない。
「どうしてこんな簡単な動きができないんだろう。」
と自分でも嫌になるが、これまで水泳を人に教えたりした経験から、スポーツとはそんなものだということも知っている。簡単に見えることほど、実際やってみると難しいものなのだ。
これで今回クルーズの「目標」が決まった。社交ダンスを覚えること。マユミは週に何度もダンスクラブに通っているベテランであるが。僕は今まで一度もやったことがない。これまでは、
「お互い好きなことをやりましょう。」
と彼女のやっていることに興味を持ちもしなかった。クルーズの間にせめて一度は、妻と生演奏をバックに踊ってみたい。
そして、ダンスの上手い人は船の「スター」なのだ。