さよならビリー
全員が参加してのショー形式のカーテンコール。
ビリーが「ロイヤル・バレー・スクール」を受験することに対して大きな障害があった。それはロンドンまでの旅費がないということ。ストライキが長引くにつれ、ビリーの父を含め、炭鉱労働者の誰もが困窮していた。ストライキ中はもちろん賃金は払われない。組合からのわずかな補償だけである。ビリーの父親はピケットラインを破り、働こうとする。そして、それを見つけた長男と喧嘩になる。
ビリーの父が、なぜスト破りをしようとしたかの理由を知った仲間たちは、金を出し合い、ビリーと父親がロンドンへ向かうための旅費を工面する。ビリーと父親は、オーディションのためにロンドンへと向かう。
しかし、オーディションはビリーにとって失敗続きであった。持って行った伴奏のカセットテープはワカメ状態になるし、ガックリしている彼を慰めようとした別の子とケンカをしてしまうし。彼は、面接の最後に、バレーの憧れる自分の気持ちを正直に述べ、自分がバレーダンサーとして舞台に立つことを空想する。その空想の中で、ビリーは「十年後の自分」と一緒に踊る。(その踊りが、この劇のクライマックスで、スタンディングオベーションが巻き起こった場面である。)
ビリーは失意のうちに故郷に戻り、バレーの道を諦めようとする。そんなとき、「ロイヤル・バレー・スクール」から、合否を知らせる手紙が届く。ビリーはそれをロクに読みもせずゴミ箱に捨てる・・・
舞台が終わってのカーテンコール。観客は立ち上がって出演者たちに拍手を送る。通常のカーテンコールの後に、もうひとつ小さいショーが用意されていた。皆がバレーの「チュチュ」を着けて踊る。ビリーの父や兄や、ボクシングのコーチまでが、それに加わる。劇の後の別のショーは「マンマ・ミーア」と同じバターン。幕が下りた後、僕たち三人は、結構高揚した気分で外に出た。三月上旬とは言え、外は身震いするほど寒かった。
僕たちが「ビリー・エリオット」を見てから約一ヶ月後、四月十日の新聞を開けると、前日にこのミュージカルがいよいよ最終日を迎えたという記事が載っていた。作曲のエルトン・ジョンが、最後の公演でビリーを演じていた四人の子供たちと手をつないでいる写真も載っている。その日が四千六百回目の公演であったという。二〇〇五年五月十一日が初日、その後、十一年間、同じ「ビクトリア・パレス劇場」で日曜日を除く毎日演じられていたのだ。「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」など、二十年を超える超ロングランもあるが、十一年というのは非常に長い。今回も、人気がなくなっての終演ではなく、劇場の改築が理由だという。しかし、十一年間、ずっと観客が押し寄せていたというのは、不思議な気がする。毎日新しい観客を動員できたのだろうか。それともリピーターが多かったのだろうか。いずれにせよ、ロングランとなる作品には、それなりの魅力があると納得した。
十一年間続いた後の千秋楽、四人のビリーと共に作曲者のエルトン・ジョンが舞台に上がる。
<了>