「トリック」

Der Trick

2015年)

 

 

エマヌエル・ベルクマン

Emanuel Bergmann

 

 

<はじめに>

 

エマヌエル・ベルクマンは一九七二年、ドイツのザールブリュッケン生まれ。大学入学資格取得後、米国のロサンゼルスに移り住み、その後、米国で暮らしている。二〇一五年に発表されたこの作品は、彼の処女作である。二十世紀初頭のドイツと、二十一世紀初頭のアメリカ・ロサンゼルスという、時空間を行きつ戻りつしながら、話が進む。

 

<ストーリー>

 

二十世紀の初頭、プラハ。ユダヤ教のラビである、ライブル・ゴールデンヒルシュは、妻のリフカと一緒に一間だけのアパートに住んでいた。彼は、「新しい時代」の到来に対し、危惧を抱いていた。技術革新によって次々と起こされる「奇跡」が、いずれは神の預言した「奇跡」を駆逐してしまうのではないかと。彼は、息子が欲しかった。しかし、彼は妻のリフカとセックスする機会も少なくなってきていた。第一次世界大戦が始まる。これまでラビとして、人々の疑問に答えてきたライブルだが、「なぜ起こったのか」、「何時終わるのか」、そんな戦争に対する質問に、答えられなくなってきていた。そして、彼も徴兵され、家を出て行く。

リフカは、夫が去り、改めて、夫が家庭では何の役にも立たない人間であったことを知る。彼女は、配給された石炭を持って農家を回り、幾ばくかの食料を得て、命をつなぐ。しかし、戦線がプラハに近づくにつれ、食料の確保は困難になってきていた。ある日、彼女が買い出しから戻ると、隣人のモッシェが階段に、打ちひしがれた様相で座り込んでいる。戦線から休暇で戻ったら、妻が居なくなっていたという。

ライブルは家に戻る。彼はびっこを引いていた。前線で負傷し、送り返されて来たのだった。彼は戦争での体験を妻に話そうとしない。三週間後、大戦が終わる。ロシアとドイツで革命が起こり、プラハを含むボヘミア地方は、チェコスロバキアとして独立する。

リフカが妊娠していることが分かる。

「これは奇跡なの。男の子が生まれるのよ。」

とリフカは夫に言う。

「父親は誰だ?!」

とライブルは問い詰める。

「神の子よ。」

リフカは言い張る。トイレに入ったライブルは、窓から月を見る。

「もし、あの月が雲に隠れたら、奇跡を信じよう。」

ライブルはそう思う。次の瞬間、月が雲に隠れる。

 リフカは男の子を出産する。その子はモーゼと名付けられ、「モッシェ」と呼ばれるようになる。それは、隣人の男性と同じ名前であった。生まれて間もなく、モッシェは高熱を出す。リフカは医者を呼びたいが、彼らにはそんな金がなかった。

「ギンスキー医師のところへ行け。」

夫のライブルは妻に命じる。彼女はそれに従う。ライブルの名前を聞いたギンスキー医師は、深夜にも関わらず、往診に応じる。彼の処置で、息子は助かる。ギンスキーは、戦争中、ライブルの上官で、彼と生死を共にした仲だった。

「戦争で一体何があったの?」

リフカは夫に改めて尋ねる。

「お前が俺に戦争について追及しないなら、俺もお前に『奇跡』について追及しない。」

と、ライブルは答える。

モッシェは、身体の弱い子供だった。母親のリフカは、彼を注意深く育てる。モッシェは、空想好きの、無口な少年に成長する。リフカは病を得る。ある日、モッシェが家に戻ると、母親が床に倒れていた。ライブルは医者を呼ぼうとする。

「呼ばないで!」

とリフカは夫を制する。リフカは急速に衰弱していく。遂に、ギンスキー医師が呼ばれたとき、リフカは瀕死の床に就いていた。医者は、リフカの横で話をする。

「レーニンは死んだ。トルコのカリフは退位した。ヒトラーが政権を取ろうとしている・・・」

そんなことを、医者は語る。ある夜、隣人のモッシェが訪れ、リフカに会いたいと言う。夫のライブルは彼を追い返そうとして、ふたりは揉み合いになる。

「帰って!」

リフカの声がする。彼女は何とか立ち上がり、二人を止める。数日後、リフカは死ぬ。リフカを埋葬した後、モッシェはずっと泣いて暮らし、ライブルは酒に溺れる。一年経って、やっと、ふたりに立ち直りの兆しが現れる。

 

 マックス・コーンは十一歳。ロサンゼルスに住むユダヤ人である。両親が離婚すると聞き、マックスはショックを受ける。彼は、日本レストランで、両親に離婚について告げられたのだった。彼の両親の離婚の噂は学校中に広まり、級友も彼に理解と同情を示す。マックスは、離婚の原因が、自分ではないかと考える。彼は、その前に父親と、自分のウサギの世話について喧嘩になり、

「パパなんて、いなくなればいいんだ。」

と言ったからである。結局、父親が出ていくことになる。夫婦の不仲の原因は、父親ハリーの不倫にあった。母親のデボラはそれを知り、裁判をしないで、協議離婚をしようと決意、弁護士を訪れる。

「息子のマックスのためにも、早く片付けた方がいい。」

そう考えたでデボラは、弁護士に協議離婚のための手続きを依頼する。しかし、ハリーもデボラも、離婚を決意した後、全てに集中力を欠き、仕事で失敗ばかりしていた。

 マックスが家に戻ると、引っ越し屋のトラックが家の前に停まっていた。作業員が父親の荷物を、トラックに乗せている。マックスは、父親が予想外に早く出ていくことにショックを受ける。

「これからも会える。何も変わらないから。」

と父親はマックスを慰める。マックスは、まだ閉めていない段ボール箱の中に、一枚のレコードを発見する。カバーには、

「偉大なる魔術師、ツァバティーニ」

という名前が、銀色のサソリと共に印刷されていた。

「このレコード貰っていい?」

マックスは尋ねる。父親はOKする。家を出た父親のハリーだが、当面は、母親のところに住むことになっていた。週末は、マックスが、祖母のところで、父親と過ごすことになる。

 最初の週末、マックスは祖母、父親と叔父叔母たちと、タイ料理店で一緒に食事をしていた。ハリーの母親、マックスの祖母は、ナチスの作ったユダヤ人強制収容所の生き残りであった。マックスは父親に、レコードが何処から来たのかを聞く。

「ツァバティーニは、俺が子供の頃、すごく有名なステージ・マジシャンだった。彼は、相手の考えを読んだり、未来を予測したりすることができた。」

と、父親は言う。

「ハリーったら、ツァバティーニに入れあげて、自分のバルミツワー(十二歳のときに行われるユダヤ人の成人式)に彼を呼ぼうとしたの。手紙を書いたけど、彼は来なかったわ。その代わりに、お祖父ちゃんがレコードを買ってあげたの。」

レコードは、ツァバティーニが観客に魔術を施しているところを録音したものだという。マックスは、何とかして、そのレコードを聴いてみたいと思う。

 家に戻ったマックスは、物置になっているガレージに入る。そして、そこに、何年も使われていない、埃にまみれたレコードプレーヤーを見つける。マックスと母親はそれをきれいにして、マックスの部屋に運び込む。独りになったとき、マックスはそのレコードをかけてみる。ツァバティーニの声が流れる。

「これから行うのは、『愛の魔術』です。ここに参加した人は、『永遠の愛』を得ることができます。」

ツァバティーニは言う。それは、聞き取りにくい訛りのある発音だった。マックスは、その「愛の魔術」を使って、父親と母親をもう一度愛し合わせて、一緒にできないかと、考え始める。

『愛の魔術』の呪文、それは・・・」

そこまで来て、レコードを同じ箇所を繰り返し始める。古いレコードは傷ついていたのであった。マックスはがっかりする。その夜、夕食の時、マックスの機嫌は悪い。一方、母親のデボラも疲れ果てていた。彼女にとって、マックスは望まない妊娠だった。妊娠が分かって、慌ててハリーと結婚し、出産の後は、それなりに子供が可愛くなり、これまで育ててきた。しかし、ハリーが出て行った後、彼女には、独りでマックスを育てて行く自信がなかった。夕食のとき、機嫌の悪い母子は言い争いになる。

「分からず屋のあんたなんて、産まれてこなければよかったのよ。」

デボラはそう叫んでしまう。

 

 モッシェは十五歳になっていた。ある日、彼が家に帰ると、隣人のモッシェが、階段に座っていた。

「お前に見せたい物があるんだ。一緒に来ないか。」

隣人は少年を誘う。隣人が連れ行ったところ、そこはサーカスだった。

「これは、単なるサーカスじゃない。『魔術』なんだ。」

と隣人は言う。二人はサーカスのテントの中に入っている。登場したマジシャンは、顔の半分をマスクで覆っていた。

「戦争で、化学兵器によって、顔半分をやられたって話だ。だから『半月男』って呼ばれている。」

隣人が言う。舞台の半月男は話し出す。

「あなた方の目は、あなた方自身を欺いている・・・」

半月男は、アシスタントの女性を紹介する。ペルシャの王女、アリアナだという。モッシェは彼女のエキゾチックな美しさに魅了される。半月男は、女性をトランクに詰め、杖に仕込んだ刀でトランクを突き刺す。観客から悲鳴が挙がる。半月男がトランクを開ける。それは空だった。マジシャンは再びトランクを閉め、再び開ける。そこからは、にこやかにアシスタントの女性が出てきた。最後のショーは、女性を宙に浮かせるというものだった。ソファに横たわる女性が、だんだんと上がっていく。

「皆さんの中で、どなたか、彼女が本当に宙に浮かんでいるか、確かめたい方はいませんか?」

半月男は観客に問いかける。モッシェは、手を挙げる。結局彼が選ばれ、彼は舞台に上がる。

「彼女を魔法の世界から引き戻すために、キスをしてください。」

マジシャンは言う。モッシェは、女性の唇にキスをする。

 帰りが遅くなったモッシェに、父親は暴力を振るう。翌日モッシェは家を出る。彼はサーカスのあった場所に行ってみる。そこに、テントはもうなかった。彼は、その前にある売店に入り、そこの女性に聞いてみる。

「サーカスはどこに行ったの?」

女性は、サーカスの次の公演の場所を知っていた。

 モッシェは、ドイツのドレスデンで、サーカスのテントを見つける。彼は疲れ切っていた。プラハの家を出てから、彼は、モルダウ川に沿って歩き続けた。たまに、食料と宿を提供してくれる人たちから施しを受け、ジプシーのキャンプでも暮らした。チェコとドイツの国境まで来たが、そこで彼はドイツへの入国を拒否される。国境の宿屋で、彼は、ドイツ人の職人たちと一緒になる。

「お前は、ユダヤ人だな。」

とドイツ人が聞く。

「昔はそうだった。」

とモッシェは答える。ドイツ人は、モッシェの頭にあるキッパーを取り、暖炉の火に投げ込む。モッシェはユダヤ人を捨てる決意をする。翌日、彼は森の中の小道を通り、ドイツのザクセンに入ることに成功する。そしてドレスデンにたどり着き、サーカスのテントを見つけたのであった。

テントの中に入ろうとするモッシェを、誰かが呼び止める。それはアシスタントの女性、「ペルシャの王女」だった。かつらを脱いだ彼女は金髪の短い頭であった。

「あんた、どこかで見たことがあるわ。そう、プラハで舞台に上がって来たユダヤ人の子じゃない?」

女性は言う。

「僕はもうユダヤ人じゃない。普通だ。」

モッシェは答える。

 「ペルシャの王女アリアナ」の本名はユリア・クライン、十八歳、生粋のドイツ人だった。そして、「半月男」の本名はルディ・クレーガー。店の売り子をしていたユリアは、友人となけなしの金をはたいて入ったキャバレーで、クレーガーの舞台を見る。彼女はその後、クレーガーの楽屋を訪れ、自分を売り込む。彼女は、両親の家から抜け出し、外の世界で生きてみたかったのだ。クレーガーは若くて容姿の良いユリアを、アシスタント兼情婦として採用、二人はコンビを組むことになる。二人は色々と作戦を練り、クレーガーは男爵と名乗り、顔半分にマスクを付けることになる。ユリアはペルシャの王女と名乗ることにする。二人のアイデアは功を奏し、クレーガーは出演のチャンスが増える。二人はテントを購入、何人かのスタッフを雇い、独立して興業を始める。ユリアは、現在自分がしなければならない雑用を、モッシェに押し付けることを考える。彼女は、モッシェをクレーガーに紹介する。

「お前はユダヤ人か?」

クレーガーは尋ねる。

「昔はそうでした。」

とモッシェは答える。

「人種はここでは関係ない。皆、アーティストなんだ。」

クレーガーは言う。モッシェは、一行に加わる。

 モッシェの旅芸人の一員としての生活は、最初慣れないこともあったが、楽しいものだった。彼は、ユリアの傍にいるだけで幸せだった。一行は、クレーガーとユリアの他に、四人の楽団員、切符もぎりの女性、ピエロ役、動物の世話係兼雑用という面々だった。ある日、クレーガーは、

「お前はサーカスで何がしたいんだ?」

とモッシェに尋ねる。モッシェは考えた末に、

「あなたと同じようなマジシャンになりたい。」

と言う。クレーガーはモッシェに手を見せるように言い、その後、

「よかろう。お前の師匠になってやろう。それには条件がある。先ず、名前だが、今日からツァバティーニと名乗れ。そして、これから俺に教わることは、絶対に口外しないと誓え。」

と言う。モッシェはそれを誓う。その日から、彼の名はツァバティーニになった。

 サーカスは各地を回り、モッシェはマジックのテクニックを少しずつ学んでいく。クレーガーは厳しい師匠であったが、モッシェは耐えた。クレーガーは、色々なマジックの秘密を伝授する。例えば、トランクを刀で突き刺す場面で、刀は二本用意されており、一本は真剣、一本は押すと刀身が中に入る仕掛けになっていた。クレーガーはテクニックだけでなく、マジックの歴史も、モッシェに教えた。

「舞台の上でマジシャンは多くを語ってはいけない。絶対嘘はつくな。真実には口をつぐめ。」

とクレーガーは説く。舞台で、モッシェはピエロの役をしていた。

 ドイツのギーセンで公演があったが、そのときの観客は最悪だった。権力と酒に溺れるSAの将校が来ていたのだ。将校は、ピエロ役のモッシェをいびりまくる。モッシェは、その将校に近づき、耳元でささやく。

「あんたは一年以内に死ぬ。」

それを聞いて、将校は大人しくなる。ユリアはモッシェが観客に何を言ったのか知りたい。

「夜が明けるまでに、あんたは俺を好きになる、そう言った。」

とモッシェは答える。

「あんたのこと、最初に会った時から気になってたの。」

ユリアは言う。その夜、二人は結ばれる。

 

 マックスは家を抜け出し、バスでロサンゼルスの街中に向かう。秋の夕方、冷たい雨が降っていた。彼は「ハリウッド・マジック・ショップ」に入っていく。マックスはルイスという名の店主にツァバティーニのレコードを見せ、この人を知らないかと聞く。

「昔一度だけ見たことがある。『キャッスル』というキャバレーに出演していたときだ。超一流のマジシャンというわけではない。そこそこの男。何より訛りがひどかった。東ヨーロッパ訛りと言うのかな。左手も不自由だったし・・・」

店主はそう答える。

「彼は『メンタリスト』として売り出していた。相手の心を読む、読心術だ。」

マックスはツァバティーニを捜しているという。

「奴さんはお金がないはず。安い老人ホームを捜してみな。例えばフェアファックス・アヴェニューにある『キング・デイヴィッド』とか。」

 マックスは、「キング・デイヴィッド」の受付にいた。老人ホームは、金のない老人の終着駅という雰囲気を漂わせていた。

「ツァバティーニという人を捜しているんですが。」

とマックスは受付の女性に言う。

「そんな名前のひとはここにはいない。」

と受付嬢は答える。

「昔マジシャンで、左手が不自由で・・・」

マックスがそう説明すると、彼女は、バンガローの一つをマックスに教える。マックスはそのバンガローの前まで行き、ドアをノックする。誰も出てこない。彼は窓から中を覗く。部屋の中に誰か倒れている。ガスの臭いが鼻を突いた。マックスは、庭にあった椅子を持ち出し、力いっぱい玄関のドアにぶつける。何度の挑戦の後、ドアが開く。中には、一人の老人が倒れていた。彼は、受付に駆け戻り、事態を告げる。ホームの責任者と思われる男が飛んでくる。

「モッシェ!」

男は倒れている老人に駆け寄る。マックスと責任者ロニーは、老人を、外に運び出す。ロニーは何度も老人の頬を叩く。老人は目を開ける。

「放っておいてくれ、俺は死のうとしていたんだ。」

と老人は言う。そのアクセントは、レコードのマジシャンと同じだった。

 一時間後、老人とマックスは、レストランで食事をしていた。

「あなた、マジシャンなんでしょ。『偉大なる魔術師、ツァバティーニ』とは、あなたのことなんでしょ?」

マックスは尋ねる。老人はその質問を無視する。

「レコードであなたの言っていた、『愛の魔術』の呪文、それを教えて欲しいの。両親の仲を元通りにしたいんだ。」

「あれは、単なるトリックだ。」

老人はつれなく言う。

「あなたの話をして。どうして、あなたはここに居るの?」

マックスは、何とか老人の口を開かせようとする。

「俺はユダヤ人だ。」

老人は言う。

「僕もユダヤ人、同じだ!」

とマックスは言う。老人は、一九四五年一月、強制収容所にいるところをロシア赤軍によって解放され、その後、米軍兵と一緒にアメリカに渡ったと話し始める。彼は当時を回想する。収容所から解放されたツァバティーニは、西に向かって歩いていた。そこで、彼は米軍の将校と知り合いになる。彼は得意の「読心術」を披露し、米軍の将校に取り入る。そして、共産主義者の摘発に手を貸した見返りとして、米国籍を取得し、一九四八年にアメリカに来た。一時はCIA「思想コントロール」のプロジェクトの一員となるが、所詮、彼はトリックを使っているに過ぎなかった。

「お前の父親は帰って来はしないさ。」

ツァバティーニはマックスに言う。

「ここの勘定を払っておいてくれ。」

彼はそう言って、席を立つ。彼は戻ってこなかった。ウェイトレスが、マックスに金を払うように言う。しかし、マックスは金を持っていなかった。彼は、母親に電話をする破目になる。 

 ツァバティーニは老人ホームに戻る。そこには責任者のロニーが待っていた。

「家賃の未払い、並びにホームの備品の損傷を理由に、本日限りで出て行ってもらう。」

ロニーは、「退去勧告」を、ツァバティーニに手渡す。

 デボラは、裕福な歯科医の娘だった。両親ともユダヤ人、彼女は、仏教に影響を受けたこともあったが、産まれてきた息子を、ユダヤ人として育てることにする。ハリーは、理想の夫ということはなかったが、「ホロコーストの生き残り」の息子として、ユダヤ人社会では、一応のステータスを持っていた。法律を学んだハリーは、音楽関係の仕事に就き、著作権の仕事をしていた。マックスが出て行った後、彼女はハリーに電話をする。

「今日はあんたの番だろ。」

ハリーはそっけない。彼は、愛人に、彼女のアパートに越して来ていいかと尋ねて断られ、機嫌が悪かった。デボラは警察に電話をする。しかし、当然、警察は直ぐには動かない。そんな時、マックスからの電話が架かった。

 マックスを迎えに行った帰り道の車の中、デボラは、どうしてマックスがレストランに居たのかを訪ねる。

「マジシャンのツァバティーニに会いに行っていたんだ。」

とマックスは答える。デボラに、罪の意識が目覚め始める。マックスはツァバティーニに失望していた。

「誰でも、子供時代の夢が破れ、失望する年齢がある。」

そんな言葉を聞いたことを思い出す。彼は失望と期待の板挟みになって悩む。

 翌日、マックスが学校から家に帰ると、芝生の上の寝椅子でツァバティーニが眠っていた。マックスは彼を揺り起こす。

「どうして僕の家が分かったんだ?」

マックスは尋ねる。

「俺は魔術師だ。」

とだけ、ツァバティーニ答える。実は、彼は、老人ホームの訪問者名簿を見てきたのだった。マックスはツァバティーニを家に招き入れる。

「どうしてここに来たの?」

マックスは尋ねる。

「お前は俺の『愛の魔術』が必要なんだろう?だからそれをするためにここへ来たんだ。」

とツァバティーニは答える。マックスはツァバティーニに食事を与える。

「こんな馬鹿な子供の親も馬鹿に違いない。」

とツァバティーニは考えていた。マックスは、ツァバティーニをガレージの物置の中に匿うことにする。

 ガレージの中で寝ていたツァバティーニだが、夜中にトイレに行きたくなり、母屋に入る。浴室で、デボラの下着を見つけて、彼は興奮してしまう。眠れないデボラは、浴室から、トイレに水を流す音を聞く。彼女は警察に電話をする。そして、箒を構えて浴室に近づく。彼女がドアを開けると、老人が便器に腰を掛け、彼女のパンティーを握っていた。彼は、箒で殴り掛かる。老人は便器から転げ落ち、床に倒れる。デボラは老人の腕に番号の刺青を見る。彼女はそれが何であるか知っていた。

「こんばんは、奥さん。」

老人は言う。

「あんたは誰?こんなところで何をしてるのよ。」

デボラは叫ぶ。

「あなたの人生を変えるために、私はここへ呼ばれて来たんです。」

と老人は言う。

「ママ、その人を叩かないで。全部、僕の責任だから。」

気が付くとマックスが、浴室の入り口に立っていた。

「この人、マジシャンなんだ。昨日会って、来てくれと頼んだんだ。」

マックスは説明を始める。しかし、そのとき警察が到着。警官が家に入り、ツァバティーニを連行しようとする。

「これは誤解だ。説明させてくれ。」

ツァバティーニは叫ぶ。

「刑務所には行きたくない。助けてくれ。」

彼はデボラに懇願する。

「分かったわ。一晩だけよ。明日には出て行くのよ。」

デボラは、警官たちを帰す。

 翌朝、デボラが目を覚まし、食堂に行くと、マックスとツァバティーニが一緒に朝食を取っていた。デボラは嬉しそうなマックスの顔を久しぶりに見る。

「奥さん、コーヒーはありませんか?」

ツァバティーニは言う。カチンと来たデボラは、

「私はあんたの召使じゃないわ。朝になったら出て行くと言ったじゃない。」

と、立ち退きを迫る。

「ママ。僕の誕生日に、何でも欲しい物をくれると言ったじゃない。僕の欲しいのは、誕生日に、ツァバティーニにマジックをしてもらうことなんだ。お願い、それまで彼をここに置いて。」

と懇願する。デボラはそれを認める。マックスは嬉しそうに、家を出て学校に向かう。マックスが出て行った後、デボラはツァバティーニにナイフを突きつける。

「おかしなことしちゃダメよ。」

ツァバティーニはデボラに自分は本当にマジシャンであることを話す。彼は、ロサンゼルスのキャバレーで一時人気を取り、何度もテレビにも出演した。しかし、その後落ち目になり、東海岸のカジノに移った。しかし、ロサンゼルスに舞い戻り、友人の経営するマジシャン養成学校で働き始める。彼は一度レコードを出すが売れなかった。

「あんたの訛りがひどすぎるからだ。」

と友人たちは言った。そして、そのレコードの中の『愛の魔術』を聞いて、マックスが自分を訪ねてきたと言う。

「『愛の魔術』なんて、マックスにはまだ早すぎるんじゃない?」

デボラは言う。

「違うんだ。魔術はマックス自身のためではなく、あなたとご主人をくっつけるためのものなんだ。」

ツァバティーニは言う。

 

一九三七年、冬。クレーガーの一行はハノーヴァーに着く。ナチスの政権下で、公演は困難になってきていた。クレーガーは、ハノーヴァーのつてを辿ってやって来たのだった。一行はハノーヴァーで越冬することにする。モッシェは、ユリアと関係が持てることに酔っていた。クレーガーは、酒の量が増え、益々気難しくなり、ユリアにも暴力を振るうようになった。ユリアは、一緒に逃げようと、モッシェに持ちかける。しかし、二人には金がなかった。

ある日、モッシェが自転車で川の傍を通ると、警察の一団が、川原を捜査していた。何かを捜しているようだった。その捜査の指揮を執っている男を、警官たちは「警視」と呼んでいた。警察の一団は車で動き出す。モッシェは自転車でその後を追う。警察の車が一軒のカフェの前に停まった時、モッシェは素早く先回りしてカフェに入り、入り口の近くの席を取る。横の席が空いている。間もなく、捜査の指揮を執っていた男が入って来る。彼は、モッシェの隣に座る。

「お疲れ様です、警視。」

とモッシェは話しかける。

「どうして、俺が警察の人間だと知っているんだ。」

その男、ライトナーは驚く。

「目を見れば分かりますよ。あなたは今、殺人事件を追っている。川で何かを捜していましたね。」

ライトナーは更に驚く。ライトナーはモッシェの「特殊能力」を信じ、彼を警察のアシスタントに採用することにする。ライトナーはモッシェを現場に連れて行き、色々と質問する。モッシェは、相手の言葉を巧みに利用し、あたかも自分に、未来を読む能力があるように振る舞う。モッシェは、

「自分はツァバティーニというイラン人で、学生だ。昔から、人の心、未来を読む能力がある。」

と自己紹介する。ライトナーはモッシェを、警察署に連れて行く。そして、自分が今担当している事件について、モッシェに説明する。それは、小児連続殺人事件であった。ライトナーはモッシェを死体安置所に連れて行き、殺された子供の死体を見せながら、

「何かを感じませんか?」

と尋ねる。モッシェは、どちらにも取れるような答えをする。一人の男が逮捕される。ライトナーはモッシェに、

「この男か?」

と尋ねる。モッシェは黙る。彼は初めて、自分のついている嘘に対して、良心の痛みを感じる。

 モッシェは、警察からの協力料を得る。それでハノーヴァーの街中に小さな部屋を借り、そこでユリアとの逢瀬を楽しむようになる。また、逃亡に備えて、金を貯める。ある夕方、公演のためにサーカスに戻ると、クレーガーがモッシェを捜していると言われる。彼は、クレーガーの楽屋へと出向く。クレーガーは、モッシェを見るや否や、杖で顔面を殴りつける。

「おれが気付いていないとでも思っているのか。」

彼は、更にモッシェを叩こうとする。しかし、座員の一人が、

「座長、公演が始まります。」

とクレーガーを呼びに来る。クレーガーはしぶしぶ舞台に向かって歩いていく。モッシェは、自分の叩かれた杖を見た。それは、トリックの装置が付いた杖だった。彼はクレーガーが真剣だけを持って、舞台に上がろうとしていることを知る。

 ユリアをトランクに入れ、そのトランクを刀で突き刺すショーになった。クレーガーが刀で突こうとしたその瞬間、ピエロの格好をしたモッシェが舞台に躍り出る。クレーガーは刀を持って、ピエロを追いかける。観客は大喝采である。モッシェはテントの支柱によじ登る。クレーガーはその支柱を固定していたロープを刀で叩き切った。テントが倒れ始める。布が照明用の蠟燭の上に垂れ下がり、テントが燃え始める。観客たちは、大慌てで出口に詰めかける。モッシェは、トランクの中からユリアを助け出し、刀でテントの一部を切り裂き、そこから観客を脱出させ、自らも逃げ出す。結局、逃げ遅れた観客九人が焼死した。その中には子供も含まれていた。事件の後、クレーガーの姿が消えた。モッシェとユリアは駅に向かい、そこからベルリン行の列車に乗る。

 

 マックスが家に戻ると、ツァバティーニはいない。その代わりに、パンツスーツを着た中年の女性と、両親がいた。女性は、スーザン・アンダーソン、児童心理学者であると自己紹介する。

「人形劇を見たことがある?」

とスーザンはマックスに尋ねる。あると答えると、彼女はこんな話をする。

「舞台にはそっくりの二つの箱が置いてある。一人の人形がおはじきを右側の箱に入れてどこかへ行ってしまう。その間に、別の人形が、左右の箱を入れ替えるの。元の人形が戻って来る。それが開けるのはどちらの箱?」

「左側。」

マックスは答える。

「それは、おかしいでしょ。」

「でも、おはじきの入っているのは左側なんだから。」

「でも、彼はそれを知らないのよ。論理的に考えて・・・」

ツァバティーニは何処に行ったんだ!」

マックスは両親に向かって叫ぶ。

「もう、ここには居ない。」

と母親。

「ママと喧嘩して出て行ったんだ。」

と父親。

「また、私だけの責任にするのね。」

デボラが夫に叫ぶ。

「あいつは、噓つきの怠け者だ。忘れろ。」

父親が叫ぶ。カウンセリングは滅茶苦茶になってしまった。

「バーミワーに来てくれなかったんで、まだ恨んでいるんでしょ。」

「バーミツワーなんて糞くらえだ。」

今度は、両親が喧嘩を始める。その隙に、マックスは家を飛び出す。両親が追いかけるが、マックスは自転車で逃げだす。デボラとハリーは一緒に車で息子を捜しに出かける。

「やっぱり、自分一人で、ビジネスと子育てをやるのは無理だったんだわ。」

「こんなことに関わっていたら仕事をする時間がない。そのうちに首になる。」

二人は後悔していた。

 マックスには、ツァバティーニがどこに行ったのか、想像がついていた。それはストリップクラブだった。その頃、ツァバティーニはストリップを見ながら、ビールを飲んでいた。そこにマックスが現れる。

「坊や、ここは大人だけが来る場所だ。出て行きな。」

と、バーの女性がマックスをつまみ出そうとする。

「お祖父ちゃんを捜しにきたんだ。あ、あそこにいるのがお祖父ちゃんだ。今、家が大変なんだ。帰ろう。」

と、マックスはツァバティーニを指さして言う。

「お孫さんと一緒に帰りなよ。」

と言われて、ツァバティーニもマックスと一緒に外に出される。

「何時まで俺のこと邪魔すれば気が済むんだ。」

とツァバティーニはマックスに食って掛かる。二人は取っ組み合いの喧嘩を始めるが、アルメニア料理店の店主に仲裁される。二人は、バス停に無言で座っていた。ツァバティーニは久しぶりに、感動に近いものを感じ始めていた。そこに、捜しに来たマックスの両親が通り掛かる。二人は再びマックスの家に戻る。ツァバティーニは、マックスのために一時的にカムバックして、一肌脱ぐことを考え始めていた。

 

 長い列車の旅の後、モッシェとユリアはベルリンに着いた。ユリアは友人のベアテを訪れ、数日間泊めて欲しいと頼む。彼らは屋根裏部屋のマットレスの上で寝泊まりを始める。ベルリンは、モッシェが見たどの町よりも大きく、エキサイティングであった。モッシェは、新聞で、ハノーヴァーの小児連続殺人事件の犯人が逮捕され、犯行を自白したことを知る。逮捕されたのは、「ユダヤ人の共産主義者」であると報じられている。記事には、ライトナー警視のコメントが添えられていた。

「この事件を解決できたのは、ひとえに、協力者のイラン人、ツァバティーニ氏のおかげです。」

とライトナーは語っていた。ユリアは、キャバレーの支配人と懇意になり、モッシェを「メンタリスト、読心術の名人」と紹介、自分はアシスタントであると言う。ユリアは色仕掛けで支配人に近づいていた。支配人は、ハノーヴァーの新聞記事を見て、モッシェの能力を信じ、モッシェ、つまりツァバティーニが舞台に立つことを認める。モッシェのユリアのコンビの息は絶妙で、二人の「読心術ショー」は成功、ベルリンで大評判になる。

 モッシェは、自分がユダヤ人であることが、いつかばれるのではないかと、何時も心配していた。ユリアはモッシェをある「印刷職人」の工房に連れて行き、モッシェの身分証明書を偽造することに成功する。彼は「イラン人、ツァバティーニ」としての、身分証明書を入手する。それにより、モッシェとユリアは新しく部屋を借り、そこでモッシェは、一般顧客を対象にしたコンサルタント業も始める。人やペット、物を亡くした相談者に、それが何処にあるのかを助言するのが仕事だった。モッシェは持ち前の観察力を発揮、それらを言い当てていき、彼はその方面でも有名になる。モッシェは成功の絶頂にありながら、いずれ自分がユダヤ人であることが発覚するのではないかと、常に落ち着かなかった。そんなある日、深夜、モッシェのアパートのドアを叩く音がする。眠気まなこでモッシェは玄関のドアを開ける。そこに立っていたのは、SS(ナチス突撃隊)のメンバーだった・・・

 

 

<感想など>

 

二人の少年の物語である。一人は、二十世紀の初頭、プラハで生まれた、ユダヤ人の少年、モッシェ・ゴールデンヒルシュ、もう一人は、二十一世紀の初頭、ロサンゼルスで生まれた、マックス・コーン、彼もユダヤ人である。母親の死後、家を出たモッシェは、マジシャン、ルディ・クレーガーの弟子となる。そして、ナチスの台頭するなか、マジシャン・ツァバティーニとして成功する。彼の得意技は、人の心を読む「メンタリズム」、「読心術」であった。それからほぼ七十年後、ツァバティーニのマジックについて知ったのが、マックスだった。彼は、ツァバティーニが「愛の魔術」を使うことを知り、それにより、離婚を決意した両親を再びくっつけることを思いつく。マックスは、老人ホームで暮らすツァバティーニを捜し当てる。しかし、そこには、人生に疲れ果てた、意地の悪い老人がいた。

モッシェの逸話と、マックスの逸話が、一章ごとに、交互に語られる。そのたびに、七十年の時が、行ったり来たりする。よく練られた話である。ストーリー展開もテンポも良く、ユーモアも効いている。時々織り込まれたギャグでも笑わせる。しかし、私は二つの点で、心から楽しむことが出来なかった。一つは、主人公がユダヤ人であるということ。ユダヤ人の歩んできた特殊な歴史的背景を考慮したとしても、その独特に考え方に、完全に感情移入できない部分があった。もう一つは、「またまた」、ホロコースト、アウシュヴィッツの強制収容所が登場することである。歴史上、避けて通れない出来事であることは分かる。また、そこで起こった数々のドラマも語られるべきであると思う。これまで、数々の小説、映画、ドラマの舞台として、アウシュヴィッツが使われてきた。私は、話がホロコーストの方向に展開して行ったとき、正直、「またかよ」と思ってしまった。著者のベルクマンは新しい時代の人、もうボチボチ、ホロコーストの題材から卒業してよいのではないかと思った。これが、私がこの本に一度興味を失いかけ、結局完読するまでに二か月掛かった理由である。

第二次世界大戦中のドイツと、現在のロサンゼルスが舞台になっているが、両方とも、丁寧に、臨場感をもって描かれている。作者のベルクマンは、一九七九年ドイツ生まれで、ギムナジウム(高校)を終えるまで、ドイツのザールブリュッケンに住んでいた。高校卒業と共に、米国に渡り、その後はロサンゼルスに住んでいるという。なるほどと思った。彼は、二つの祖国を持っていたのだ。それだけに、両方の描写に、そこに居る人にしか書けない、臨場感があったわけだ。

著者のエマヌエル・ベルクマンについては、余り書かれていない。この作品が、彼の処女作であり、二〇二一年現在、この作品の他に出版されたものはない。彼がユダヤ人、あるいはユダヤ系であることは、本の末にある、彼の書いた「賛辞」で分かった。彼の二人の兄弟の名前が挙げられていたからである。それは、ユダヤ人の人々が好んで付ける名前であった。最後に「賛辞」を読んで、私は何となく納得できた。どうして、事件から七十年も経ってから、ホロコーストをテーマにした小説が書かれたかという疑問について。ユダヤ人にとっては、何年経とうが、決して風化しない、風化させてはいけないテーマであったのだ。

ツァバティーニは「マジシャン」であり「手品師」ではない。彼の行う、「マジック」や「読心術」には、もちろん「種も仕掛けも」あった。つまり、それは「トリック」の世界であり、その一部が小説の中でも明かされている。また、その「トリック」が、この本のタイトルになっている。しかし、彼の行う「マジック」は「手品」の域を超え、「アート」、「総合芸術」の領域に達している。その「マジック・ショー」をもって、ドイツと米国で、一時は一世を風靡したツァバティーニであるが、晩年はみじめなものであった。老人ホームでガス自殺を試みたが、マックスに発見され、救助される。マックスと出会ったツァバティーニは、最後にもう一花咲かせることができるか?というのが一つの興味になる。

「何でもいいから一つ、野菜を思い浮かべて、それを紙に書いて下さい。」

「はい。」

「それはニンジンですね?」

「その通り、どうして分かったのですか。」

という、トリックが出て来る。種は「八十パーセントの人間は、野菜というとニンジンを思い浮かべる」という根拠に基づくものだという。私は、それを妻と娘を相手にやってみた。そして見事に失敗した。

 

20216月)

 

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