墜落した天使の街

原題:The City of Falling Angels

ドイツ語題:Die Stadt der fallenden Engel

(2005)

ジョン・ベレンド

John Berendt

 

http://bilder.buecher.de/produkte/22/22830/22830491n.jpg    http://sanmiguelwritersconferenceblog.org/wp-content/uploads/2011/10/john-berendt2.jpg

 

<はじめに>

 

米国のノンフィクション作家ジョン・ベレンドの、二〇〇五年に発刊された二冊目の本である。筆者はこれを読んだのではなく、ドイツ語訳のオーディオブックで聴いた。

ベニスの人間模様、気質、伝統を、ラ・フェニーチェ劇場の火事と絡めて語っている。話は一九九六年の劇場焼失の日に始まり、二〇〇三年の再開場の日で終わる。その八年の間に、この話の主人公の一人とも言える、ガラス細工の名人、アルキメデ・セグーソは劇場の再興を見ることなく亡くなっていた。

 

http://www.veniceonline.it/LaFenice/fenice_dayaf2.jpg

焼失したラ・フェニーチェ劇場

 

<ストーリー>

 

「私」は、一九九六年の冬、ラ・フェニーチェ劇場が燃えた三日後にベニスを訪れた。辺りにはまだ焦げ臭い匂いが立ち込めている。

その三日前の夜、ガラス職人のアルキメデ・セグーソは、自宅で窓の外に目をやる。すぐ近くのラ・フェニーチェ劇場に火の手が見えた。炎は間もなく劇場全体を包み込む。セグーソは避難勧告を無視して、窓際に立ち、燃え落ちていく劇場を眺めていた。

ベニスの旧家の主、マルチェロは、劇場が燃えているのを知り、駆けつける。そこには市長のカッチャーリを始め、ベニス市の重要人物が集まり、燃える劇場を眺めていた。

「自分の目の黒い間に、劇場が再開するのを見ることができるだろうか。」

マルチェロはそう呟く。

彼の妻はニューヨークで、「セーブ・ベニス」の主催する仮面舞踏会の準備の最中だった。「セーブ・ベニス」は欧米の金持ちから寄付を集め、それをベニスの建物や美術品の保存、修理に充てるというチャリティー団体である。有名な画家、ルドヴィコ・デ・ルイージもそのチャリティーのためにニューヨークにいた。舞踏会の直前に、ヴェニーチェ劇場が燃えているという知らせが届く。「セーブ・ベニス」の首脳陣は、その日集まった金を、全てラ・フェニーチェ劇場の再建のために寄付するという決議をする。舞踏会の席で「セーブ・ベニス」会長のボブ・ダスリーがそれを発表し、参加者はそれに賛同する。

 ラ・フェニーチェの火事は、未明に鎮火する。幸い延焼は食い止められ、焼けたのは劇場だけに留まった。火事の翌日から、ガラス職人のセグーソは、火事をモチーフにした作品の製作を始める。市長のカッチャーリは二年以内に劇場を元通りに再建すると宣言する。

 火事の数日後、市民集会が行われた。集まった市民の前で、市長を始め、ベニス市の重鎮は、遺憾の意と、劇場再興への決意を述べる。参加した市民の中から一人の男が立ち上がった。画家のルドヴィコ・デ・ルイージである。

「あんたたちを選んだとき、俺たちはあの美しい劇場をあんたたちに託した。それを灰にしておきながら、あんたたちは誰も責任を取ろうとしない。」

ルイージは市長に辞任を迫る。彼の意見は多くの参加者の賛同を得るが、結局市の執行部は居座ることになる。

 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ed/Henry_James_by_John_Singer_Sargent_cleaned.jpg/200px-Henry_James_by_John_Singer_Sargent_cleaned.jpg

ベニスを愛したヘンリー・ジェームス

 

 ベニスは過去にヴェネチア共和国として、地中海の覇権を握っていた。しかし、その力は徐々に衰え、ナポレオンに占領されることにより終焉を迎える。ナポレオンは膨大な美術品をフランスに持ち帰る。その後ベニスは歴史の第一線から退き、地方都市としてひっそりと生きることになる。しかし、その唯一無二の美しさに魅せられた多くの芸術家がこの街を訪れ、この街に住むことになる。ヘンリー・ジェームス、トーマス・マン、ストラビンスキーなど著名な作家、音楽家がベニスに留まり、ここで創作に勤しんだ。

 「私」もしばらくベニスに住み、そこの人々をテーマに作品を書く決意をする。「私」は、米国人と英国人の夫妻、ピーターとローズの家に下宿をする。ベニスに三十年以上住む夫妻は、私にベニス人の気質について色々と話して聞かせる。一言で述べるならば、ベニスは偉大な「田舎」、「村」であるという。

 「私」が早朝散歩していると、数人の男が網を使って鳩を捕獲しているのに出会う。「私」はそれに興味を覚え、市の動物保護課の責任者にインタヴューを申し込む。課長は、ベニスに生息する鳩は十五万羽に上り、建物に被害を与える他、病気の発生も危惧されていると述べる。市では密かに鳩を捕獲し、殺しているとのことであった。ただ、ベニスは観光客で持っており、その観光客は鳩をベニスの、中でもサン・マルコ広場のシンボルだと思っている。そうである限りは、鳩を完全に駆逐することはできない。そんなジレンマをベニスの町は抱えていた。

 「私」はベニスの対岸にある、ジュデッカ島に興味を持ち、しばしばそこを訪れる。その途中、ヴァポレット(水上バス)の上で、ヴァポレットの車掌の身なりをした男に出会う。その同じ男が、次に会ったときには、警察官の格好をし、その次には船員の格好をしていた。マリオ・モーロという名前のその男は、色々な制服を集め、それを着用することにより、その職業になりきるという奇妙な性癖を持つ人物であった。「私」はベニスで数々の風変わりな人々に出会ったが、彼はその中でも一二を争う人物であった。

 ベニスに本土からの橋を架け、港を整備し、対岸のマルゲラやメストレに工場を誘致し、ベニスの近代化を図った実業家がいた。ジョゼッペ・ヴォルピという人物である。「私」はその息子がジュデッカ島に住んでいるのを知り、息子、ジョヴァンニ・ヴォルピに面会求める。ジョヴァンニは、ベニスの住民を嫌っていた。ベニスの近代化に尽力した父親のことを、今の人々が、ベニスに公害や水質汚染をもたらした悪人のように述べることが、彼には耐えられないと言うのである。ベニスは今も、近代化と風致地区の保存の間で悩んでいる。

 

http://www.destination360.com/europe/italy/images/s/italy-venice-carnevale.jpg

仮面をつけたカーニバルの参加者達

 

 ラ・フェニーチェ劇場の火事の原因究明のための捜査に、検察官のカッソンが任命される。彼は過去に爆弾テロ事件を担当し、当時国家機密であった共産主義者の対抗する秘密組織を暴きだし、その真相を明らかにした「やり手」の検察官であった。彼は原因が放火ではなく失火であると判断し、市長、劇場支配人を始め、市の重要人物に捜査の手を伸ばす。

 二月の終わり、ベニスはカーニバルの季節を迎える。街は仮面をつけ、仮装をした人々で溢れる。カーニバルが有名になってから、ベニスにはマスクを売る店が増えた。そのマスク工房の中でも老舗のロベルトの工房を「私」は訪れる。ロベルトは、ラ・フェニーチェ劇場が再建、再開されるまでには、何十年も年月がかかるであろうと予想していた。事実、他の都市の劇場が焼失したとき、再建までに何十年という時間が費やされていた。

 「私」もピーターとローズ夫妻と一緒に仮面舞踏会に参加する。そこには数々の風変わりな人物が徘徊していた。三人の「ドージェ」を出した名門の家の主は、

「民主主義は無意味だ。政治はその道のプロ、つまり『貴族』に委ねるべきだ。」

と主張し、それを説明する本を書いていた。また、「現代のカサノバ」を名乗る男が、数人の美女を連れて現れる。極めつけは、ネズミを殺す毒薬、殺鼠剤のメーカーの社長ドナドーンである。彼は各国のネズミにはそれぞれ好みがあり、その国のネズミに合った薬を調合することで大金を得ていた。例えば、イタリアのネズミ用には、オリーブ油とパスタを薬に配合するとか。

「良く効く殺鼠剤を開発するにはネズミを観察しちゃいけない。そこに住む人間と、その嗜好を観察しなければ。」

とドナドーンは主張する。

 火事から数ヶ月経っても、アルキメデ・セグーソは「ラ・フェニーチェの火事」をテーマにした作品を作り続けていた。「私」はセグーソの工房を訪れ、アルキメデの息子、ジーノと話す。ジーノは父の偉大さにまつわるエピソードをいくつか紹介する。ある時、さる国の王子が精巧なガラス細工の牛を持って現れ、父親に真贋の確認を依頼した。数日後、セグーソはオリジナルと寸分違わないコピーを作り、その王子の前に並べた。王子にさえ、そのどちらがオリジナルでどちらがコピーであるか判断がつかなかったという。

 アルキメデ・セグーソにはジーノの他にもう一人ジャン・パウロという息子がいた。ジャン・パウロは五十歳で父親の工房を出て、自分で工房を開き、父親や兄弟とは対立関係にあるという。ジャン・パウロは父の名前を勝手に商標登録し、父を性格破綻者として経営陣から除こうとしたという。「私」はその息子、ジャン・パウロとも会う。そして、そこで伝統を守り抜こうという世代と、新しく変わっていこうという世代の葛藤を知ることになる。ベニスの伝統作業も、近代化の中で、その存続を模索しているのである。

 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/49/Venezia_-_Palazzo_Barbaro_sul_Canal_Grande.JPG/300px-Venezia_-_Palazzo_Barbaro_sul_Canal_Grande.JPG

バルバロ邸

 

 「私」がある日、ピーターと一緒にカナル・グランデの傍を通ると、白い服に身を包んだ中年と女性と身なりの良い男性が、屋敷を出て自家用のモーターボートに乗り込むところであった。

「あれが有名なカーティス家の人間だ。」

とピーターが言う。カーティス家は、十九世紀の中ごろ、ボストンからベニスに移住してきた、米国人の家族である。モーターボートに乗り込んだ白い服の女性、パトリシア・カーティスの曽祖父にあたるダニエル・カーティスは、ボストンでの生活に嫌気がさして、家族を伴ってベニスに移り住んだ。裕福であった彼は、由緒ある屋敷「パラッツォ・バルバロ」を買い、そこに住み始める。屋敷の最大の部屋は「ピアノ・ノビレ」と呼ばれている。カーティスは、作家のヘンリー・ジェームス、画家のクロード・モネなど、数多くの芸術家のベニスでのパトロンとなり、彼の屋敷は芸術家の集うサロンという体をなした。しかし、現在はダニエルから数えて四代めになるパトリシアたちが、その相続を巡ってもめているということであった。

 「私」はカーティス家の人々へのインタビューを試みる。「私」が最初に会ったのは、パトリシアの弟のラルフであった。彼は、「世界平和のため」、「宇宙人と交信するため」に、屋敷の自分の部屋を宇宙船のように改装し、模擬宇宙旅行を楽しむという一風変わった人物であった。弟は三人の兄弟が屋敷の相続を巡ってもめていることを認める。そして、その結果屋敷の一階であるピアノ・ノビレを売りに出していると言う。

 数週間後、「私」はパトリシア・カーティスと会う。彼女が実質的に壮大な屋敷を管理している。彼女は、作家のヘンリー・ジェームス、詩人のロバート・ブラウニング、画家のジョン・シンガー・サージェントのゆかりの部屋を「私」に見せてくれる。彼女は先祖から引き継いだ屋敷を守り抜こうと努力をするが、屋敷に対して所有権の一部を持つ兄弟に反対され、ついに、結局屋敷の一部を売ることで同意をしたと言う。この時代、個人で壮大な屋敷を管理していくことは困難になりつつある。

 ヘンリー・ジェームスの小説「鳩の翼」が映画化されることになり、バルバロ邸でロケーションが行われた。その場で、「私」は、パトリシアの息子のダニエルと話す。彼は、先祖代々の屋敷が切り売りされることは断腸の思いであると述べる。そして、

「いつか金が出来ればきっと買い戻す。」

と話す。

(注:「鳩の翼」は一九九七年、ヘレナ・ボアハム・カーターの主演で映画化された。)

 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/f/f0/Rudge.jpg/250px-Rudge.jpg

若き日のオルガ・ラッジ

 

 ヘンリー・ジェームスの短編の中にベニスを舞台にした「アスパンの恋文」(The Aspern Papers)という短編がある。

「今はなき有名な詩人アスパーンのかつての愛人であったベニスに住む老婦人が、アスパーンの書いた手紙を保管していた。その手紙を得るために、『私』は老婦人とその姪に近づく。老婦人が亡くなった後、姪は、

『私と結婚してくれるならその手紙を渡してもいい。』

と言う。その申し出を拒絶して彼女の家を立ち去った『私』だが、思い直して、求婚を受け入れるために再び彼女を訪れる。しかし、彼女はアスパーンの手紙を全て燃やした後であった。」

そんな粗筋である。

 かつて、ベニスにアメリカ人の詩人、エズラ・パウンドが、愛人のバイオリスト、オルガ・ラッジと一緒に住んでいた。パウンドは一九七二年に亡くなったが、オルガはその後、二十五年以上独りで生きていた。そのオルガが亡くなったというニュースが流れる。

 そのふたりに興味を持ってた「私」は、彼らが住んでいた家を訪れ、その隣人であるアメリカ人の牧師夫妻から話を聞く。そして、パウンドの残した手紙とそれにまつわるスキャンダルについて知る。私はその全容を明らかにするために、オルガをめぐる色々な人々に会う。

 パウンドが亡くなったとき、オルガは彼の膨大なメモ、手紙を保管していた。それは文学史的に非常に貴重なものであり、オルガ自身もそれを知っていた。オルガが歳を取り、次第に身体が不自由になり始めたとき、ジェーン・ライランズというアメリカ人の女性が現れ、献身的にオルガの世話を始める。

オルガが九十二歳のとき、ライランズはオルガに「エズラ・パウンド基金」の設立を提案する。オルガもそれに同意し、彼女は会長になり、ライランズともうひとり弁護士を合わせ、三人が基金の代表権を握ることになる。ライランズが奇妙な行動を取り始めたのはその後である。彼女は「洪水から守るため」という理由で、オルガに内緒で書類を家から運び出す。友人の忠告でそれを知り、激怒したオルガが基金の解散と、運び出された書類の返還を求めたときには既に遅かった。オルガがサインした覚えのない書類により、彼女の家と書類の所有権は、「基金」つまりライランズに移ってしまっていた。基金の解散後、その書類はエール大学の図書館に売られ、ライランドは大金を手にする。しかし、その金がオルガに渡されることはなかった。

「私」はそのスキャンダルと、ジェームスの「アスパンの恋文」をオーバーラップさせる。著名な芸術家の活躍の舞台となったベニスは、そういう意味では、研究材料の宝庫と言えるかもしれない。しかし、それを求める人々の悪意と策略が渦巻く場所でもある。

 

ラ・フェニーチェ劇場の火災の原因について、最初は失火説が主流を占めていたが、数ヵ月後、検察官のカッソンと専門家チームは、放火が原因であると発表する。そして、当時、劇場内で電気工事を請け負っていた会社の責任者と、従業員であるその従兄弟が、容疑者として警察に逮捕される。検察官のカッソンは、彼らが工事の遅れによる罰金を払うように施工主から迫られていたこと、火災当日の行動に辻褄が合わないことがあることを理由としていた。このニュースは、市長を始め、「業務上過失」による失火として起訴されるはずであった人々には都合の良いものであった。しかし、カッソンはたとえ放火であっても、市の管理者に対する「業務上過失」の責任は問い続けると述べる。しかし、二人の電気工事人はベニスの人間であり、地元の人間が僅か数千ユーロの金のために町の貴重な財産を灰にするかという疑問も残った。

一方で、ラ・フェニーチェ劇場の再建の計画も進み始めた。六つの民間の企業体が、市の公募に応じた。しかし、車の入れないベニスでは、建築機材や建築材料の現場までの運搬に困難が予想された。何より、どこを掘っても遺跡が出てくると言ってよいベニスでは、その発掘調査のための工事の遅延が日常茶飯事になっていた。案の定、今回の工事も暗礁に乗り上げる。設計が文化財保護法の抵触するというクレームがついたのだ。工事は中断し、他の業者が新たな設計図を基に、工事をやり直すことになる。画家のルドビコ・デ・ルイージは劇場の外壁に、炎の落書きをすることにより、市の工事の進め方に対して抗議をする。

 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/97/Santa_Maria_dei_Miracoli_(facciata).jpg/250px-Santa_Maria_dei_Miracoli_(facciata).jpg

サンタ・マリア・デイ・ミラコリ教会

 

サンタ・マリア・デイ・ミラコリ教会の修復は「セーブ・ベニス」の基金によって行われた。当初三年の工期が十年にも及び、費用も予定の四倍を費やした修復工事は一九九八年にようやく終わり、ベニス市は「セーブ・ベニス」の代表者ローレンス・ロヴェットに勲章を贈り、感謝の意を表すと発表した。しかし、それに対する反対が、意外にも「セーブ・ベニス」の内部から出た。組織のプレジデントで、実質的に事務を取り仕切っているボブ・ガスリーが、組織として参画した事業に対して、ひとりの個人だけが表彰を受けるのはおかしいと言い出したのである。

一九六六年の大洪水で被害を受けたイタリアの歴史的建造物や美術品を救おうと、欧米で色々な援助団体が結成された。米国の「セーブ・ベニス」のその中のひとつである。一度活動停止の直前まで追い込まれた組織を引き受け、再び成功に導いたのが整形外科医のボブ・ガスリーであった。彼は、大口の出資者を集めるため、ベニスで豪華な晩餐会、舞踏会が企画した。しかし、彼の独断専行的なやり方は、古くからいるメンバーとの間に軋轢が広まる。結局、組織は二つに別れ、ローレンス・ロヴェットが「ヴェネティアン・ヘリテージ」という良く似た組織を作り、ふたつの組織が並立し、同じような活動を行うことになる。

いずれにせよ、文化財を守るという最初の大義はだんだんと失われ、金持ちがベニスに集まり、散在をするという親睦団体の様相を帯びてきている。

 

http://s3.amazonaws.com/trazzler-images/af/2902/478865620_254e044261_b.jpg

ムラノ島にあるガラス工房

 

詩人のマリオ・ステファニが自殺をしているが発見される。彼は、同性愛者であったが、それを隠すことをせず、自分の詩の中にそれを歌い上げていた。ヨレヨレのなりをして、両手にビニール袋を提げ、一見ホームレスのように見える彼だが、歯に絹を着せぬ物言いと、そのユーモアでベニスの人々には好かれていた。

ステファニには不動産など、かなり財産を残していた。そして、遺言状を書くのが趣味(?)と言いたくなるほど、沢山の遺言状を残していた。遺言状は日付が新しいものが有効になる。彼が司法書士に渡した本の中から見つかった一番新しいと思われる遺言状には、サン・マルコ広場の露店で野菜と果物を商いする三十二歳の男に全財産を譲るというものであった。彼には幼い娘がいて、ステファニは彼女がお気に入りだった。

しかし、遺言状の余りも唐突な内容に、世間は騒然となる。ステファニの本の出版者だった人物は、遺言状に余りにも誤字脱字が多いので、おそらく脅迫されて書かされたものだと考える。ステファニの死を、自殺ではなく他殺だと言い出す人間まで現れた。出版者の家には、何度も、

「この件から手を引け。」

という脅迫めいた落書きが青いフェルトペンで書かれる。

 結局、露天商の八百屋の青年がステファニの遺産を相続する。彼はその後も、一間の家に家族と住み、商売を続ける。人の噂も七十五日の例えどおり、この件は忘れ去られる。数ヵ月後、「私」が編集者の家の前を通ると、「古着売ります」という文字が青いフェルトペンでガラス窓に書いてあった。その字体は脅迫の落書きと同じ筆跡であった。

 

 ラ・フェニーチェ劇場の再建は困難を極めていた。請け負っていたドイツのゼネコンが倒産の危機に瀕したからである。契約金額の見直しを望む業者と、それを拒む市との間の対立から、工事は何度も中断した。カッチャーリに代わり新しくベニス市長に選ばれたコスタは、これまで請け負っていた業者との契約を白紙に戻し、新たな業者と契約し、再スタートを切る。彼は、「劇場完成まであと何日」という電光掲示板を工事現場の前に付けさせ、工期については一切妥協を許さない厳しい態度で業者に臨む。その甲斐ががあって、二〇〇三年の暮れに完成する目処がつく。

 ラ・フェニーチェ劇場への放火の罪で起訴された二人の電気工は、懲役刑の判決を受けるが、弁護側はローマの高等裁判所へ上告する。市長を始め、当時の市の首脳部に対する管理責任は結局問われないことになる。上告が却下され罪が確定したとき、ひとりの被告人は収監を逃れて姿をくらまし、結局行方不明のまま、ひとりが刑務所に入っただけに終わった。

 二〇〇三年十二月、指揮者のリッカルド・ムーティを迎え、イタリアの大統領の臨席の下、再興された劇場の、杮落としのコンサートが行われる。「私」も切符を手に入れ、そのコンサートを聴く。そこで「私」はこの本に登場する沢山の人々と再会する。コンサートの後、「私」は劇場のすぐ横のセグーソ家の前に立つ。誰よりも劇場を愛し、その焼失を惜しんだアルキメデ・セグーソは、劇場の再開を見ずに亡くなっていた。

 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f8/Teatro-la-fenice-sala.jpg/350px-Teatro-la-fenice-sala.jpg

再建されたラ・フェニーチェ劇場の内部

 

<感想など>

 

オムニバス風、と言ってもよい。「ラ・フェニーチェ劇場の焼失と再建」という、一応のプロットはあるものの、実に様々な人々が、様々な観点から取り上げられる。ベニスを知るには役に立つ。ベニスについて勉強したい方には、是非お勧めしたい本である。

エッセーと言うより、ノンフィクションと言った方が良いかもしれない。ベニスとそこに住む、そして過去に住んだ人々が、徹底的に観察、分析の対象になっている。風景の描写は少なく、徹底的に「人間」を描いているところが良い。特にその人々の間の「愛憎」が描かれている。人間を描くことにより、その街全体の特徴を浮かび上がらせる、エッセーを書く者にとって手本にしたい点である。

現代のベニスの抱える問題。官僚主義、歴史的な建物の管理保存、鳩対策、地盤沈下による洪水などが浮き彫りにされる。しかし、どの世界にも、どの組織にも、人間の欲望が渦巻いているものである。芸術を志す人々に世界に、老婆を騙して、彼女の持つ貴重な文書を取り上げる輩がいる。ボランティアの非営利団体とは言いながら、その中で自己顕示欲の醜い争いが繰り広げられる。人間というのは本当に「懲りない」動物だと、ため息をつかされるエピソードが次々と登場する。

本の中に登場する「私」はベレンド自身だと思われる。彼の取材はフェアである。単なるゴシップの収集で終わっていない。と言うのは、常に対立する人物の両方を取材し、両方からの見解を述べているからである。例えば、最後の亡くなったマリオ・ステファニの遺言状についての章だが、彼はステファニの死を他殺と捉える人、自殺と捉える人の両方を訪れ、話を聞いている。同じ出来事に関して、立場が違うと、全然別の見解、記憶が述べられるのが面白い。

ヘンリー・ジェームスとその作品が多く登場。これまで英米文学には余り興味のなかった筆者だが、これを機会に少し読んでみたい。しかし、画家や彫刻家だけではなく。小説家や詩人にベニスの街に魅せられた人たちが多いのに驚きいた。

一番印象に残ったエピソード、「殺鼠剤」の会社の社長の話。彼は

「ネズミが何を好むかを知るには、ネズミを観察してもダメ、人間を観察するべき。」

という信念を持っている。人間の食べている物をネズミも食べ、人間の嗜好がネズミにも移るというのである。従って、インドのネズミはカレーを好み、フランスのネズミはグルメで、米国のネズミはジャンクフードを好む。殺鼠剤もその味付けをしなければならないという。この話はなかなか面白かった。

 最後のシーンが、ラ・フェニーチェ劇場再開後最初のコンサートであるというのも良い。そこにはベニスの著名人が一同に会していた。この本に登場した人物が、「カーテンコール」として最後にまた登場する。しかし、オルガ・ラッジを騙して、書類を搾取したジェーン・ライランズまでがその席に来ていたというのには驚いた。

 読んだ後で、改めてベニスを訪れてみたくなる本である。

 

201212月)

 

<書評のページに戻る>